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2005年5月26日 (木)

「面白半分」快人列伝

○2005年5月26日
「面白半分」快人列伝(佐藤嘉尚・平凡社新書)

 「面白半分」は、1971年から1980年にかけて出された雑誌である。吉行淳之介、野坂昭如、開高健などそうそうたる作家12人が6ヶ月間、順番に編集長をしていたのである。
 この雑誌の創刊から倒産に至るまでの経緯は、少し前にでた集英社新書の「『面白半分』の作家たち」に書かれている。
 立て続けに出てくる二番煎じ風の新書であるし、活字も大きく、スカスカな本で、さほど、期待しないで、時間つぶしと思いながら、読み始めた。
 ここでは、「面白半分」にかかわった快人・怪人たちの話であるが、「四畳半襖の下張り」の掲載により、野坂と佐藤がわいせつ罪に問われた裁判の顛末と、常連執筆者であった詩人金子光晴の破天荒な生き様が面白かった。
 最近になってこの手の本を読むことが多い。ノスタルジックな気分で、自分の青春時代を思いだしている側面もないではないのだが、彼らが、若気のいたりというか、世の中に体当たりでぶつかっていたときに、自分は何をしていたのだろうか、こういう人生の選択もあったのにとの思いが重なってくる。
 あとがきにある金子光晴の「頬っぺた」というまごのことをうたった詩の一節がいい。

   「つめたいのは、風ばかりではない。
    若葉は知るまいが、一あし出れば、
    ふれさせたくないことでいっぱいだ。」

 破天荒で、無頼、でもか、だからかは、分からないが、金子のナイーブな感性が伝わってくる。
 今更ながら、詩を読むのもいいかなと思い出した。

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2005年5月24日 (火)

南の話

○2005年5月24日
 
 ”やっぱりそうだったんだ。最初っからホームページにあたってみりゃよかった、と一瞬おもったけれど、このほうがきっとよかったんだろう。偶然に戯曲を発見して→もしやと推理して→ビンゴー、という道は、回り道であっても、だんぜん快感だもの。”
                         青山南の「南の話」毎日新聞社・p213(☆☆☆☆)

 カウボーイ・マウスというロック・グループ名の由来が、サム・シェパードの「カウボーイ・マウス」という戯曲の名前であるということを発見したときの話である。コンピューター検索ではなく、手に取った本で発見したときの快感は、手軽な検索では味わえないということ、同感、同感。

minaminohanasi 南の話といっても、ポリネシアやハワイの南国ではなく、アメリカの南部にまつわる小説や映画、そして、音楽をネタにしたお話が、南部を車で旅をする様子をからめて、軽いタッチで展開する。
 フォークナーなどのメジャーな作家や、ルイジアナ、ミシシッピ、アラバマなどのアメリカの南部を舞台にしたミステリなど、馴染みの作家も登場するが、大半は初めて知る人名である。でも、青山の語り口を聞いていると、ついつい読みたくなってしまう。聞いているとというのも、実際は、本なので、文章を読んでいるのだが、語りを聞いているような気分で、ほんわりと好奇心を掻き立てられてしまう。
 アラバマ物語は、黒人差別意識が根強いアラバマ州の田舎町で、弁護士である父親が、白人を強姦したという濡れ衣をかけられた黒人の弁護を引き受けるというピューリッツアー賞を受賞した小説であるが、その小説の作者であるハーパー・リーとトルーマン・カポーティは、近所の幼なじみで、小説にはカポーティらしき少年も登場するという。知りませんでした。そういえば、しばらく前に、500円の廉価版DVDで、グレゴリー・ペック主演のアラバマ物語を買っていたのを思いだした。今週末でも、観ようと心に決めた。 アラバマ物語の本の方は、暮らしの手帖社からでていた筈。装丁は目に浮かぶのだが、持っているのかどうかは定かではない。まだ、本屋で手に入るのだろうか。

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2005年5月21日 (土)

ミスティック・リバー

 ○2005年5月21日
 仕事をするには惜しいようなさわやかな土曜日であったが、たまった、仕事を片づける必要があるので、事務所に車で出かけることにした。
 さすがに、遅くまで仕事をする気にもならなくなり、8時前に、家に帰ることにした。
 セパ交流戦も、巨人・日ハムの乱打戦の様相で、面白くないので、NHKラジオにダイヤルを合わせたら、フォーク歌手の杉田二郎がゲストの音楽番組をやっていた。
 彼の代表曲は、「戦争を知らない子供たち」であるが、この曲は、1970年に大阪で開かれた万博のイベント・ステージのために、北山修が作詞し、杉田二郎が作曲したときの話や、ロンドンに留学していた北山修を訪ねて、2週間程度で10数曲の曲を作った曲を作ったときの話をしていた。彼は、私よりも少し年上で60歳近いと思うのだが、まだ、現役で音楽活動をしている様子を聞くと、我々の人生もまだ捨てたものではないのではないかなと思ってしまう。
 「戦争を知らない子供たち」という言葉も、年上の世代からは揶揄的使われたり、下の世代からは居直り的に使われたりして、多少、手あかがついてしまって、気恥ずかしいところもあるが、
 「 若すぎるからと 許されないなら
  髪の毛が長いと 許されないなら
  今の私に 残っているのは
  涙をこらえて 歌うことだけさ」
このフレーズを聞くと、自分にも、青臭いなどと考えずに、社会のこと、平和のことなどを考えていた10代が時期があったことを思い出してしまった。

 夕食を終えてから、クリント・イーストウッド監督の『ミスティック・リバー』を観ることにした。何度か、観ようとしたのだが、何となく、この映画と立ち向かう気力がわかなかった。今日は、すんなりのこの映画の世界に入っていけそうと思い、DVDをセットし、本編をスタートさせたのだが、日本語の吹き替えバージョンが流れてきた。英語の音声、日本語の字幕にするのに、4-5回試行錯誤してしまった。時々、このようなDVDに出くわす。私の持っている再生機の問題もあるのかもしれないが、何か、設定に不自然さがあるように思う。
 原作は、『闇よ、我が手を取りたまえ』などのパトリック&アンジー・シリーズ(角川文庫刊)で注目を浴びていたデニス・ルヘインが書いたノン・シリーズ物の「ミスティック・リバー」(早川文庫)である。
 この映画で、ショー・ペンがアカデミー男優賞、ティム・ロビンスが助演男優賞を受賞している。
 舞台は、ボストンのダウンタウン、ジミー、デイブ、ショーンの3人の子どもが路上で遊んでいたが、デイブ(ティム・ロビンス)だけが、白昼誘拐される。
 そして、25年後に、ジミー(ショー・ペン)の娘ケイトが殺され、今は、刑事となっているショーン(ケビン・ベーコン)は捜査にあたっている。ケイトが殺された夜、デイブは血だらけになって帰宅した。何者かに襲われたのだという。
 被害者の父、容疑者、刑事の3人の交錯する人生模様が、ボストンの陰鬱とした景色を背景に、ゆったりとしたカットバックで描かれている。ダーティ・ハリーの頃のイースト・ウッドは、目には目をというアメリカの正義を体現し、犯罪に対する怒りに満ちていたが、このところのイーストウッドの映画は、一刀両断に罪を裁くことはせずに、ひたすら、犯罪の裏に隠れた人間の哀しみを描いている。人生は、映画や小説のエンディングのように完結することはない、終わっかに見えても、まだ、人生は続くのである。
 この映画のラストは、観る者によって、意味が異なってくる。残された者たちのこれからの人生を思うとき、登場人物のいずれに気持ちを託しても、一つの答えは出てこない。

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2005年5月10日 (火)

Jポップの心象風景

○200年5月10日(火)
 宇賀陽弘道の『Jポップの心象風景」(文藝新書)読了。
 この本で取り上げられている歌手は、桑田佳祐、松任谷由実、GLAY、ザ・ブルーハーツ、草野マサムネ、浜崎あゆみ、椎名林檎、そしてB’zである。
 正直なところ、この歌手の名前を見ても、メロディが浮かんでくるのは、桑田佳祐、松任谷由実、そして、椎名林檎がかすかにその声が聞こえてくる程度である。
 この本は、後書きにあるように、Jポップの解説本ではなく、「Jポップという窓からのぞいた現代日本人の心象風景」を描き出すことを目的としているが、Jポップ・ファンの心情というよりも、大人が子どもの好きなJポップを外から分析したという風情の本である。私が理解できないというか、頭の中にメロディが流れて来ないという限界上の問題かもしれないが、面白かったのは、桑田佳祐、松任谷由実、椎名林檎、そして、GLAYの項である。と言うより、音の聞こえてこない歌については語るものはないとしかいいようがないのである。この状況は、大人の側の理解能力というか感性が欠けているのか、それとも、歌い手自身の表現能力が劣っているのかは議論のあるところであろう。
 とりあえず、こんな表現に、共感を覚えてしまった。
 桑田佳祐について
 「大胆な表現をすれば、意識しているかどうかは別として、桑田は『植民地化された湘南の土着民の視点にいるのではないか。』(p35)
 松任谷由美について
 「ユーミンは、大衆が経験しながら言葉にできない感情を、歌に乗せて言葉にする。すなわち、「ふつうの人間に聞くことのできない『心の発する声お』に耳を傾け、」それを誰にでも理解できるような『言葉』と『歌』に翻訳し、表現するの媒介者が彼女なのだ。そんなユーミンは『現代日本のシャーマン』なのだ、と私は思う。(p67)
 椎名林檎について
 「これから成人しようとする若い彼女たちは、選ばなくてはならないのだ。『伝統的な社会規範に沿った女性』として生きるのか、そうしないのかを。つまり、『母』になるのか、ならないのかを決めなくてはならないのだ。もし伝統的社会規範と決別し、自我を確立していこうとするなら、彼女たちがまずやらなくてはならないのは「自分の内なる母」を殺すことだ。(p201)

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2005年5月 9日 (月)

飛べフェニックス

○2005年5月9日
推理小説同好会のOBの仲間と、ビールを飲みながら、ロバート・アルドリッチ監督の『飛べフェニックス』(1969年)を観る。
その昔、テレビで観たことがあるが、再度、観たかったのだが、なかなかDVD化されていなかったが、リメイクの「フライト・オブ・フェニックス 」の上映に合わせて、DVD化された。
エンジンの不調で、サハラ砂漠に双発双胴の飛行機が不時着する。
 ハーディ・クルーガー扮するドイツ人の飛行機設計者の指揮の下に、単発単胴(双胴に対して単胴というのかはよくわからないが)の飛行機に改造して、砂漠を脱出するというお話である。
 徒歩で砂漠を踏破しようとする者は方向に迷ったすえに、出発地に戻ってしまい、アラブの隊商の野営地に助けを求めに行った仲間はあえなく殺害されてしまったりなど、大げさではなく、舞台劇風に淡々と描かれている。
 指揮を取る若造のクルーガーと、年配のパイロットのジェイムス・スチュアートの対立が唯一といっていいほどの対決場面。
 熱血漢風のドラマに食傷気味の者にとっては、気持ちのいい映画。
 先月観た『砂塵』のジェイムス・スチュアートは若く痩せこけていたが、この映画では、中年太りの風情で、強烈な印象はなかった。『砂塵』といえば、マレ-ネ・デートリッヒが競演する珍品B級西部劇で、一見の価値ありの映画である。

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2005年5月 8日 (日)

秋刀魚の味

 昨日、早々と寝たので、朝4時頃に、目が覚めてしまった。眠れそうもないので、映画を観ようと起き出した。昨夜、『マッケンジー大作戦』を観ながら途中で寝てしまったのだが、明け方から、戦争映画を観るという気もしなかったので、小津安二郎の『秋刀魚の味』を観ることにした。小津安二郎の遺作となる映画である。
 平山周平(笠智衆)は、結婚をして世帯を持っている長男夫婦(佐田啓二と岡田茉莉子)がおり、24になる娘(岩下志摩)と大学生の次男(三上真一郎)と暮らしている。妻を亡くしてはいるが、今が一番幸せな時だと思っている。中学時代の友達からは、娘を早く嫁にやれ、見合いをしろといわれていたが、その気にはなれなかった。娘も、家族の世話があるので、嫁にはいけないといっている。
 中学のクラス会に恩師(東野英二郎)を迎えた席で、昔、可愛かった娘は結婚をすることもなく、今は、恩師と中華そばやをやっているという。恩師を送って先は、場末の中華そばやで、恩師の娘(杉村春子)に会うが、昔の面影はなかった。
 娘の真意をさぐると、長男の会社の同僚(堀江晋)にどうやら気があるらしい。長男に同僚の意向を聞いてもらうと、すでに、同僚もその気があって、前に打診したときに、結婚をする気がないというので、諦めて、婚約してしまったという。結局、娘は、平山の友人の勧める見合いの相手と結婚することになる。
 
 中年の男が娘を嫁にやる気持ちになり、やった後の寂しさを描いた話といえば、身も蓋もないが、最近の大仰なドラマとは異なり、ドラマチックなストーリーがなくても、じわっと身につまされる映画である。映画の後半になると、外も明るくなりだし、プロジェクターで映し出される映像も白々としてきたが、気持ちよい日曜の朝を迎えるのに相応しい映画であった。
 割烹の女将に、若い妻をもらった友人のことを聞かれて、今日、葬儀なんだよという場面と、平山が友人に娘の見合いの話を進めてほしいというと、居合わせた友人が自分の紹介した娘と見合いをして、決まりそうだと平山にいう場面が、淡々とした映画の中で、観客もびくりとする数少ない場面である。特に、後者の場面は、父である平山だけではなく、観客の方も、やっと嫁に行く気になった娘が不憫になってくる。いずれも、すぐに、友人たちが口裏を合わせた他愛もない冗談であることが分かる。淡々とした話の展開のアクセントとして秀逸であった。
 娘が長男の住む家を訪れた後、長男の同僚と電車に乗るのが、東急池上線の石川台駅がでてくる。駅名の表示板があるのみのホームの場面であるが、昔、懐かしい駅といった風情がなんともいえない。池上線に乗っている人は是非観てほしい場面である。

 ところ、鱧(はも)は出てくるが、秋刀魚(さんま)は出てこない。考えてみると、小津安二郎の世界は、秋刀魚というよりも、鱧の方が似合う。それにしても、割烹、バーなどと、酒を飲む場面がやたらに多い映画である。

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2005年5月 5日 (木)

名探偵コナン・水平線上の陰謀

connan05 ○2005年5月5日
 野沢尚が脚本を書いた「ベイカー街の亡霊」を観てから、名探偵コナンのアニメだけは、子どもにつきあって観ている。このゴールデンウィークも、息子と「水平線上の陰謀(ストラテジー)」を観にでかけた。
 名探偵コナンのアニメが面白いのは、カットの作り方も実写映画と同じような手法で作られており、脚本もきちっとできているからである。
 今回は、太平洋を処女航海中のアフローディテ号の船上で、オーナー会社の八代客船の会長と社長が殺されるという事件が発生する。乗り合わせたおなじみの江戸川コナンや毛利小五郎らが犯行の真相を暴くというお話である。
 話のひねり自体はどうということはないが、一度、明かされた真相の裏の真相がさらにもう一回明かされるという趣向になっているのが新味といったところである。
 最期は、コナンが沈没寸前の船に閉じこめられている毛利蘭を救いに行くのだが、最近のアクション映画と同様に、救出にきたヘリコプターに、手と手をつないで引き上げるというような超人的なシーンが登場する。ここらへんは、最近のアクション映画のやりすぎで、私は白けてしまうのだが、最近の人はこういうシーンに違和感を感じないのだろうか。

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2005年5月 4日 (水)

ゴッドファーザー&サン

  午前中、息子と床屋にでかける。その後、駅前の回転寿司で昼食。息子は焼き肉をすし飯で包んだものをえらく気に入って、2皿も食べていた。私の方は、ネタはさておき、すし飯の方が今一なので、寿司はそこそこに、生ビールを2杯飲んでしまった。
 帰りに、CDショップでDVDを眺めたがこれといったものがないので、本屋に立ち寄る。文庫本の平積みの中に、川井龍介の「122対0の青春」(講談社文庫)を見つける。1998年、夏の甲子園の青森県大会で、強豪東奥義塾高校に122対0と大敗した深浦高校野球部の物語である。この結果を伝える新聞記事はかすかに覚えているが、元毎日新聞記者の川井氏とは久しく会っていないが、一時は会ったり、頻繁に電話がかかってきたりしたことがあったので、著者の名前に惹かれて購入した。
 昼食を共にした息子は友達のところにでかけ、妻と娘は、映画を観に出かけているので、我が家には私一人である。5月のさわやかな風が窓を吹き抜けてくる、のんびりとした昼下がりである。息子の中学受験を機に、ケーブルテレビの契約を解約してしまったので、テレビは地上波しかみることができない。新聞の番組欄を見ても、目下、11連勝中のロッテの試合はもちろん、セリーグの首位である中日の試合も、中継をしていない。ほかにも興味をそそる番組もない。
 そういえば、昨日は、12チャンネルで、ロッテ=楽天戦を中継していたが、リードされていた楽天が2点を返し、4対3となり、押さえのエース小林が登板というところで中継は終わり、後は、BSジャパンで見ろとのテロップが流れていた。
 日頃、DVDは夜プロジェクターで観るのだが、居間のテレビで、「ゴッドファーザー&サン」を観ることにした。

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