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2005年6月29日 (水)

『藤沢周平と山本周五郎』

○2005年6月29日
    『藤沢周平と山本周五郎』時代小説大論議 佐高信×高橋敏夫 毎日新聞社
   
 ”高橋ー京極夏彦は、私は一九九〇年代から現在に至る時代が、ミステリーからホラーへという転換をうながしてきた、その象徴的な作家と見ています。「失われた一〇年」とは、社会的に広がった「解決」喪失時代と見れば、解決を結末とするミステリーはリアルではなくなって、ミステリーの始まりである凄惨な出来事だけが残る。つまりホラーなのです。京極夏彦の『嗤う伊右衛門』、『覘き小平次』は、時代小説にホラーを見事に組み込んだ傑作です。”

 大学生であった30数年前、SF小説が全盛であったが、ミステリからSF小説まで手を広げると収拾がつかなくなるという思い、SF小説のたぐいはほとんど読んでいない。 時代小説もは、少しは読んでいたが、やはり、ここに手を広げるとという思いで、時たま読む程度で思いとどまっていた。
 年を取るに従って、時代小説が気になるようになってきた。日本ミステリを読むならば、時代小説にいくほうがいいかなと思っていたところ、評論家の佐高信と大学教授の高橋敏夫の対談本が目についた。
 まずは、二人は、完結的な物語、しかも、時代の勝者的な人物を描いている司馬遼太郎は嫌いだと断じてしまう。そして、正史と野史の対立する歴史小説に対し、その野史の無効にある「闇」のとらえる理想の時代小説が、結城昌治の『斬に処す』であり、隆慶一郎の『吉原御免状』であり、中里介山の『大菩薩峠』であるとする。
 そして、ちゃんばらを否定し、市井の世界を題材とした山本周五郎、○○道といった道にとらわれない藤沢周平の時代小説を、二人はひたすら賛美する。
 藤沢周平は故郷を描くが、山本周五郎は故郷を描こうとはしていないと論じたり、最後には、京極夏彦や町田康の将来性にまでたどりつく。
 勝手きままな二人の放談に近い対談で、偏見による一刀両断であるとも感じざるを得ないが、きわめてスリリングな対談である。
 ミステリよりもホラーの時代といわれても、ホラー小説には手を出す気にはなれないので、そろそろ時代小説に手を染めてもいいのかなと思い出している。
 

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