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2005年7月 3日 (日)

メディア・リテラシー

○2005年7月3日(日)
名古屋の中京大学で開かれた研究会で、メディア・リテラシーのワークショップに参加した。
メディア・リテラシーという用語は「メディアを読み解く力」とか「読み解く力を育てる」ことを指している。
 前から、メディア・リテラシーには関心があり、本も何冊か読んでいたが、体験するのは初めてのことであった。
 素材としては、長野オリンピックの際に放映されたコカコーラのCMを使った。コカコーラは、長野オリンピックのオフィシャル・スポンサーである。
 TVCMは、通常15秒と30秒のものとがあるのだが、ここで観たコカコーラCMは、30秒のもの2本観た。
 1本目は、フィギィア・スケートのCM。女子選手の演技の合間に、老若男女の観客、主に白人であるが、演技にうっとりする者、うなだれる者など、様々なシーンがクローズアップ、バストアップ、ロングショットなどで登場する。重厚なクラシック風なバックグランドミュージックに、最初はモノトーンの色彩で、最後のクライマックスに真紅の花束が投げられ、それがコカコーラの赤のシンボルマークになる。カット数は、26カットであった。
 これに対し、2本目は、アイスホッケーの試合を舞台に、様々な観客が登場するのだが、ホッケーのゴールの赤ランプがにぎやかな音とともに点滅し、BGMはロックミュージック、ホッケーの試合の戦いが強調され、観客の興奮のしかたも、エネルギッシュというかもっとフーリガン風の暴力的な雰囲気に満ちている。カット数は数えきれなかったが、40数カットあった。観る者に、考える余地もあたえずに、ひたすら商品のイメージをおしつけてくる。
 1本目のCMは、観客の表情などから、様々なイマジネーションが喚起され、受け手がそれぞれその人なりのドラマを思わせる非常に良質のCMと思えた。但し、白人ばかりの世界であるという批判もなりたつのだが、フィギィアスケートの世界自体が白人のものであるということからすると致し方ないのではないだろうと感じた。
 これに対し、2本目のCMは、明らかに、1本目のとは異なる若者がターゲットとなっている。コカコーラという飲料からすれば、メインのターゲットである。
 すなわち、前者はコカコーラのイメージアップを図り、後者は若者に積極的に売り込むことを目的としているのは明白であった。
 そして、その効果といえば、この場には、10代の大学生から60代くらいの者もいたのだが、若い人たちは、後者のCMがよかったいい、私を含む年配の大人は、前者のCMがよかったとした。
 実際には、よかったというよりも、理解できない、受け入れられない、疲れたという感想が、若い世代と年配の世代とで分かれてしまい、世代間の断絶が明確であったというほうが正確である。CMの制作者は、ひたすら効果的なCMを制作しようとするのであろうから、受け手の意識を的確に分析しているという結論になるのだろう。
 この視点を別の角度でみると、このようなCMを観させられることにより、世代間の断絶を増幅しているともいえる。
 特に私の趣味とするアクション・サスペンス映画でも、昔の映画には余韻をもたせるものが多かったが、最近の映画は執拗にスリリングなシーンを展開し、観客に心理的なサスペンスを与えるのではなく、観客に考える余裕を与えずに、ひたすらスリルのみを押しつけてくるものが多い。後者のCMの手法をとっているのである。

 絶え間なく、刺激を与え続けられていると、刺激のないものに対しては反応しなくなり、より刺激のあるものを求めるようになる。その行き着く先は微妙な感情の動きには反応できない感覚の世代の誕生である。
 このような流れに対し、対処のしようがあるのだろうかと考えると、絶望的な気分になってしまう。
 メディア・リテラシーは、ひとつの結論を押しつけるものではない。上記のように感じたのは、私だけなのかもしれないが、この感じたことを人に伝えるというのもメディア・リテラシーなのだろう。
 

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