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2005年8月16日 (火)

『スポーツを「読む」・記憶に残るノンフィクション読本』

○2005年8月16日(火)

『スポーツを「読む」・記憶に残るノンフィクション読本』重松清 集英社新書

”一人の村上は退屈の果てにあるものを見極めるために、もう一人の村上は退屈の表皮を剥ぎ取ったあとに露わになるものを探るために、祭りを描く。余りにも対照的な二人は、しかし、ともに退屈から目を背けず、それを乗り越えようとしている。”(p71)

 まえがきの凡庸さに、あの重松清がこんなつまらない文章を書くのかというのが、この本の第一印象であった。阪神ファンの41歳のサラリーマンが読む報知新聞とデイリースポーツの記事の違いとその語り方から、前書きが始まる。
しかし、本文を読み進むと、杞憂であったことがわかる。
 山際淳司、沢木耕太郎、玉木正之、関川夏央らの実力派のスポーツ・ライターから始まり、浅草キッド、ホイチョイ・プロダクションまで、40人近いライターの本をソジョウニあげ、様々な角度から、スポーツを読むことの楽しさから、スポーツを書くことの難しさを論じている。
 その大半は、スポーツ雑誌「スポルティヴァ」に連載した文章とのこと、掲載された順番通りではないとは思うが、長ちょうばの連載とあって、中だるみをしているな感じるものもあったが、スポーツに関する文章批評といいながら、開高健、村上春樹、村上龍、三島由紀夫らに触れた文章では、重松らしい、文学論になっている。
 冒頭の二人の村上とは、村上春樹と村上龍のことである。二人のスポーツ記事に対する取り組み方の評であるが、これを、「『退屈』を『日常』あるいは、『戦後ニッポン』に、『祭り』を『性』もしくは『戦争』に置き換えて」みたらどうであろうかと、重松はいう。
至言である。
 金子達仁、最相葉月、小関順二、草野進らを扱った(Ⅳ)「対との距離の取り方が新しい興奮をつくる」では、スポーツに限らず、ノンフィクションにおける対象と書き手の関係、距離の取り方、描き方を、簡潔に例示しながら論じている。ライター志望であれば、一読の価値のある本である。

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