« 『スポーツを「読む」・記憶に残るノンフィクション読本』 | トップページ | 『君たちに明日はない』  »

2005年8月19日 (金)

『消えた直木賞 男たちの足音編』

○2005年8月19日(金)
    『消えた直木賞 男たちの足音編』 邱永漢、南條範夫、戸板康二、三好徹、有明夏夫
    メディアファクトリー
   
   ミッキー・マウスの50年の著作権が切れる寸前に、著作権の期間を70年とする法改正がアメリカで行われた。ディズニーのロビー活動が効をを奏したのである。
  日本でも、現在、同様に著作権法を改正しようとする動きがある。
  企業戦略上、特許、商標、著作権などの知的財産権の存在がクローズアップされ、知財(知的財産権を省略したこの用語にはなじめないのだが・・・)を専門とする弁護士が増え、若い弁護士の関心も大きい。
  著作権を50年から70年とすることは一見、権利の擁護のためにはよさそうに見えるが、問題があるといわざるを得ない。
  そもそも、50年も経済的価値を持ち続けるものがどのくらいあるのかということである。ミッキー・マウスはその希有な例に過ぎない。
  エンターテイメント系の小説に授与される直木賞が創設されたは、昭和10年である。以後、戦中、戦後の4年間を除いて、毎年2回、受賞作が発表され、純文学系の芥川賞とともに、新聞の社会面の記事となるので、読書に関心のない人にも周知度の高い賞である。
  ところが、現在、直木賞の受賞作品を全部読もうとしても、読むことができないことから、webデザイナーの川口則弘氏が平成12年「直木賞のすべて」というホームページを立ち上げ、これをもとに、平成16年に刊行されたのが、入手困難な直木賞作品9編を集めた『消えた受賞作 直木賞編』(メディアファクトリー刊)である。
  70年も経過すれば、入手困難なものもあるだろうと思うかもしれないが、このたび刊行された第2弾の『消えた直木賞 男たちの足音編』の巻末に掲載されたリストを見て、驚くなかれ、現在、入手困難な受賞作品が、昭和30年以降で29編、昭和50年以降で13編、平成元年以降でも3編ある。
  生島治郎の「追いつめる」、結城昌治の「軍旗はためく下に」、黒岩重吾の「背徳のメス」、多岐川恭の「落ちる」なども、重版未定などの理由により、入手が困難であるという。
  小説は、人に読まれてこそ小説なのである。著作権があると、出版をするには著作権者の承諾が必要となる。著作者本人の承諾を必要なのは致し方ないとしても、著作者の死後50年も著作権があると、相続人が著作権を有するので、出版する方の権利処理が結構面倒であるし、相続人自体が理不尽な理由で出版を拒むことがある。相続人がいないと権利は国に帰属することになる。
  50年という昔に遡って相続人を調査することも大変なことである。
  青空文庫というネット上の文庫がある。著作権が切れた小説を、ボランティアが入力し、ネットで公開している。このシステムを使えば、関心のある者は誰でも、アクセスできるのだが、著作権の期間が70年となるとアクセスできる範囲がより一層狭まってしまう。
   一見、権利を確保するように見えても、人の目に触れず消えていくものを増大せしめていくとしかいいようがないのである。
  ところで、『消えた直木賞 男たちの足音編』は、戦後に発表された推理小説・冒険小説のジャンルに入る5作品を選んだとする。5作品の内、戸板康二の「團十郎切腹事件」と有明夏夫の「鯛を捜せ」は謎解き風の展開になっているが、これを含めて5編とも推理小説的風味は少ない。その中では、三好徹の「聖少女」は、殺人を犯した少年と少年の心の内が気になる家庭裁判所の調査官の心象風景との交錯にミステリ的手法が生かされ、しみじみとした余韻がある。
  個人的な興味としては、邱永漢の「香港」が面白かった。お金の神様といわれている邱永漢の小説を初めて読んだのだが、戦後間もない時代の香港の世界が生き生きと描かれている。邱が株の本ではなく、中国の大衆社会の小説を書き続けていれば、日本の中国に対する理解がもっと違うものになったかもしれない。

|

« 『スポーツを「読む」・記憶に残るノンフィクション読本』 | トップページ | 『君たちに明日はない』  »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 『消えた直木賞 男たちの足音編』:

« 『スポーツを「読む」・記憶に残るノンフィクション読本』 | トップページ | 『君たちに明日はない』  »