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2005年9月25日 (日)

 『メディアの支配者』

○2005年9月25日(日)
『メディアの支配者』中川一徳 講談社

 近鉄とオリックスの合併問題を機に、一躍、世間に名前を知らしめたライブドアの堀江貴文が、フジテレビのアナウンサーに追いかけられている番組を観たのは何時のことであっただろうか。
 ニッポン放送の乗っ取り問題が収束した後、決着し衆議院が解散する前のことである。 堀江とフジテレビが表面的には握手をしたのであるから、フジテレビのバラエティ番組に登場しても不思議はないともいえるのだろうが、フジテレビの日枝は、金で何でもできると考えている堀江の人格を攻撃していたことを思い出すと、違和感をぬぐえなかった。
 このとき、日枝は、堀江のような若者を育てたことには、メディアにも責任もあると、自省を発言もしていた。
 ニッポン放送の問題が収束した後、フジテレビの番組作りは変わったとは思えない。相変わらずの面白ければいいという視聴率第一主義の番組がずらりと並んでいる。
 フジテレビが経済的支援をしている産経新聞は、戦後の教育をダメにしたのは日教組であると攻撃しているが、今、子どもたちに圧倒的な影響力を与えているのは、テレビであり、その象徴がフジテレビの面白主義であり、テレビの影響力の前には、教師の存在など、影が薄くなっている。
 産経新聞は、テレビの面白主義、バラエティ化についてどう考え、批判しているのであろうか、朝日新聞を批判すると同様のスタンスでフジテレビを批判することが多々あるのではないだろうか。
 最近のテレビの面白主義、バラエティ化は、観る者の思考を停止させ、同一パターンのものを繰り返すことによって、ある意味のサブミナル効果をもたらしている。
 一つの方向で大騒ぎをすることによって、すべてをそちらに向かわせる。飽きてきそうになると、次のことで大騒ぎをして、前のことを忘れてしまう。
 プロ野球への参入問題から、まだ、1年も経っていない。その後のニッポン放送の乗っ取り問題、そして、衆院選の出馬問題と話題には事欠かないが、マスコミが大騒ぎをすればするほど、風化も早い。その理由は、じっくりと、深く考えずに、表面的な事象のみを追いかけているからである。

 『メディアの支配者』は、鹿内信隆が、フジサンケイグループを作り上げ、支配をしていった歴史から始まり、後継者とした息子春雄の死、突然の後継者となってしまった娘婿の宏明のおかれた状況を克明に描いている。
 そして、ニッポン放送の乗っ取り問題で、マスコミにたびたび登場した日枝は、サンケイ新聞の代表者であった宏明の解任を画策し、フジサンケイグループからの放逐に成功していく。
 鹿内信隆から、日枝に至るまで、支配者となり、権力を振るっていく様は一環している。渦巻く権力の抗争の中には、メディアとしての資本主義的な戦略は生まれてくるかもしれないが、メディアのもつ意義が問われることがないことも一環している。
 ここに登場する各界の人たちも、この権力抗争の中にあっては、権力を掴んでいく者を見極め、権力に追従していき、理念をもって行動しているようには思えない。
 目についたのは、日枝の権力奪取に成功したときの司馬遼太郎である。日枝が、宏明の解任に成功した直後に、司馬は、産経新聞の幹部に「おめでとう。産経もよくなりますね。」とするファックスを寄せたという。司馬は、産経新聞のOBで、フジサンケイグループが誇りとする作家であり、その過程で、鹿内信隆らと、様々な確執があったであろうということは想像できなくないが、司馬がフジサンケイグループというメディアをどうみていたのだろうかが見えてこない。時代を見据えていたといわれる司馬は、日枝が推し進めていたフジテレビの面白主義をどうとらえていたのだろうか、と考えてしまった。
 
 
 

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