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2005年9月22日 (木)

『柳生薔薇剣』

○2005年9月22日
 『柳生薔薇剣(そうびけん)』  荒山徹 朝日新聞社

”一行がかの耳塚を目にしたのは、この時のことである。秀吉は朝鮮出兵の際、首級は重いからと、敵兵の死体のみならず生者、しかも女、子供を問わず鼻を削ぎ落とし、塩漬けにして桶に詰め、日本へ送らせた。その数は万余を超す。かかる蛮行の証が、京都方広寺大仏殿の門前に築かれた通称耳塚こと、その実「鼻塚」なのであった。”

 今日の午後、宇都宮に出かけることになっている。鞄に入っているのは、『メディアの支配者』の上巻、後100ページほどで読み終わるのだが、下巻は家に置いてある。つなぎに、読む本を物色するために、虎ノ門書房に寄ることにした。
 来月、乱歩の生まれ故郷の三重県の名張に行く。名張行は、ここ数年来の恒例となっている。名張から柳生の里に行ったことを思いだし、柳生物がないかと探していたら、平台に『柳生薔薇剣』が並んでいた。久しぶりの時代小説である。
 秀吉は、文禄元年(1592年)と慶長2年(1597)と2度にわたり、朝鮮に出兵をしている。「大系・日本の歴史」(小学館文庫)によれば、この2度の侵略戦争により、朝鮮の耕地は3分の1となり、日本に強制連行された朝鮮人捕虜は5-6万人をくだらないという。連行された捕虜は、陶芸や印刷などの文化を日本に伝える役割を担ったが、その多くは日本に定住したり、奴隷として外国に売られたという。

 「柳生薔薇剣」は、肥後隈本藩の貴月主馬のつ妻うねが、鎌倉の東慶寺に駆け込んだ。うねは、朝鮮で主馬のにより命を助けられたのが縁で主馬のつまになり、肥後で幸せな生活を送っていたのだが、日本に連行された朝鮮人を強制帰国させることを求める朝鮮の使節団の要求に応じ、うねの帰国を命じた主君に逆らい、東慶寺に駆け込もうと逃げたが、夫と3人の子どもは、討ち死にの目にあってしまった。
 うねをかくまう東慶寺の住持は、豊臣秀頼の遺児で、千姫の嘆願により助命された天秀尼である。天秀に想いを寄せる三代将軍家光は、柳生但馬守宗矩に密かに寺を守るように命じる。宗矩は、男子禁制の東慶寺に、実の娘を矩香を遣わす。矩香は、柳生十兵衛をもしのぐ、美貌の剣の使い手であった。
 三代将軍とその弟である忠長の対立を背景に、神子典善などの名だたる剣豪、剣豪伊賀の忍者や朝鮮の妖術師などの暗闘に、矩香は戦い抜くのだが、最後に相手となったのは、幼なじみの幕屋大休であった。

 冒頭の文章に書かれている耳塚は、秀吉を祭る京都の豊国神社の西側にある。数年前、東山を散策していた折りに、耳塚を初めて知った。恥ずかしながら、秀吉の朝鮮出兵は、朝鮮征伐と頭の中にインプットされているが、その意味が理解できていなかった。その昔の西部劇のインディアンの掃討程度の認識でしかなかった。
 耳塚の存在から、朝鮮侵略や強制連行は、太平洋戦争だけのものではないことを認識した。この話を、文化財の修復をしている京都の友人に話したら、研修のために、日本にきている韓国人の技術者が、加藤清正に関わる文化財の修復はしないという。
 500年前のことでも、忘れない人がいるということである。
 日本でも、会津と薩摩、吉良と浅野が、やっと握手をしたという類の話があるし、古代神話の時代がいつ頃のことか知らないが、神代のからの歴史を大切にするのであれば、500年前のことも記憶しておく必要がある。
 著者の荒山徹は、新聞社、出版社勤務を経て、韓国に留学し、日本と朝鮮を舞台にした時代小説を書いているという。
 「柳生薔薇剣」は、朝鮮と日本の関係を背景に、柳生但馬守のおなじみの策謀を、魅力的な女剣士を絡めたエンターテイメント小説として楽しんだ。

 耳塚のことは、 http://www.kyoto-wel.com/mailmag/ms0202/mm.htmに書かれている。

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