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2005年10月27日 (木)

『浪岡映画祭終結の辞』

○2005年10月27日(木)

『浪岡映画祭終結の辞』

 11月に開かれる青森の第14回浪岡映画祭の案内がきた。今回の案内は、浪岡映画祭の終結の辞でもあった。
 浪岡映画祭のディレクターをしている三上雅通氏は、大学時代からの友人である。彼は、非常に優秀で、しかも感性が豊かで、さらにバランス感覚にすぐれているという人物である。従って、誰もが、彼は大学に残るものと思っていたが、司法試験に合格し、修習が終わると、故郷の弘前に戻り、弁護士となった。
 大学時代、彼とは顔見知り程度で、親しく話をした記憶は余りない。
 大学の1年から2年にかけては、大学の紛争の時代であった。特に、2年生の時は、学校はバリケードで封鎖されていなかったので、授業はほとんどなかった。大学での紛争のきっかけは、確か、大学の研究資金に米軍の金が導入されていることだった。
 文化系のクラブの上部団体である文化団体連盟は、フロントという組織が牛耳っていたのだが、文化系のクラブの代表者の集まりが泊まりがけであった。私は、推理小説同好会というクラブの代表として合宿に参加したのだが、サブカルチャー系のクラブは、フロントの全共闘学生から、思想性がないということで、自己批判を迫られたことがあった。ちょうど、釣魚会の代表者が一緒であった。
 ミステリの存在価値を説明するのは到底無理と考え、釣りの話から、「お前達は、釣りをすることは、釣り糸を通して、魚と話をしていることが分からないのか」と居直ったことがあった。
 当時は、ミステリが好きといっても、馬鹿にされていた。ミステリが世の中に認められるようになってきたというのか、サブカルチャー全盛の作今の流れが目につくようになったのは、月刊プレイボーイに内藤陳が「読まずに死ねるか」という面白本オススメ・ガイドなるエッセイを書き出した頃のことではないだろうか。このころから、メインカルチャーの衰退が始まった。
 私が、ロス・マクドナルドやジョン・ル・カレの世界に傾倒していた頃、三上は、勉学の傍ら、映画館に通っていたのだろうが、この頃の彼の生活はよく知らない。
 彼が、ディレクターをしている浪岡映画祭にも数回行った。ただ、私が好みとするエンターテイメントのB級映画をラインナップとするときにはいくことができなかったが、フレデリック・ワイズマンやフリッツ・ラングの映画を観る機会があった。彼の映画祭での姿を見て、自分もまだ何かをしなければとの刺激を受けていた。
 その彼からの手紙は、映画祭終結の辞であった。
 今回、浪岡映画祭では、日活ロマンポルノから生まれた神代辰巳監督を取り上げ、22作品を上映する予定だったところ、内容を知った青森市教育委員会(浪岡町は、青森市と合併した)が「補助事業にふさわしくない」として、補助金を出さない上に、会場としてた「中世の館」の提供も拒絶されたという。
  神代辰巳監督の映画は1-2本しか観た記憶がないので、私自身その評価をすることはできないが、日活ロマンポルノという枠を超えて、世界的な評価を得ているということは知っている。
 この企画の発案は、三上氏にあるのかは分からないが、彼は、映画祭終焉の辞で、若かりし頃、神代辰巳監督の『恋人たちは濡れた』を観た後の興奮と脱力感が、30年経った今どのように変容しているのかの確認をしたかったとする。
 青森市教育委員会のこの決定に対し、彼は闘争のための闘争はしないとして、映画祭の終焉を宣言した。
 この文章が生まれるまでの間、彼と青森市、彼と仲間、彼の内部の中で、止めどもなく議論がなされ、様々な葛藤が生じていただろうということは想像に難くない。しかし、彼の終焉の辞は潔いものであった。終焉の辞の全文ががネットでもみることができるようになっっているはずが、どういわけか出てこない。代わりに、青山真治監督の抗議文がhttp://boid.pobox.ne.jp/contents/report/namioka.htmにでているので是非読んでほしい。
 
 ただ、青森市教育委員会のこの決定を非難することは簡単であるが、青森という現場にいればどうであろうか。いや、青森ではなくとも、東京もしくは周辺の都市でも、どうであっただろうか。ロマン・ポルノの映画上映に何故補助金を出すのかという批判に、堂々と対応できる行政など、想像できるであろうか。
 アメリカで、中絶を取り扱う映画祭を、イタリアで、キリストを扱う映画祭を行えばどうであろうか。
 行政に頼る限り、このような問題はつきものと覚悟する必要があるし、したたかさをもたなければ意思は通せない。
 妥協して、映画祭の存続を図っても、結局、人寄せのための映画祭しか出来なくなる。それよりも、伝説の映画祭、それを葬り去った青森市という構図も一興である。
 落とし前のつけ方はいい、だが、これで終わってしまったら、負けだ。次は、どうする三上君。
 1日しか、観ることはできないが、三上の顔と神代とワイズマンの映画を観に行くための飛行機の手配をした。

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2005年10月26日 (水)

『随筆 本が崩れる』 

2005年10月26日(水)
 『随筆 本が崩れる』 草森紳一 文春新書

 久しぶりに、三田にある大学に出かけた。学生時代にたむろった雀荘も、茶店もなくなり、昔日の面影と言えば通りの狭さくらいしかない仲通りを抜け、横断歩道をわたったところに大学がある。その角には、花市場があったのだが、そこも更地になっている。
 30年まえにもあった南校舎の下をくぐり、左手に曲がっていくと、新築の法科大学院の校舎が見えてきた。今日は、友人が担当している法交渉学の講義の手伝いである。
 約束の時間より、少し早かったので、草森伸一郎さんの『随筆 本が崩れる』を読み始めた。草森さんの職業は物書きであるが、何を専門とするのかはしかとは知らない。膨大な知識と膨大な書籍をもっていることには定評がある人である。
 この本によると、草森さんは、2DKらしきマンションに、2万冊以上の蔵書を置いているらしい。したがってというか、当然のことながら、本箱だけではなく、家中に本が溢れており、本に埋もれて、その透き間で生活をしているのである。
 ある日、草森さんは、風呂に入ろうと浴室に入ったところが、廊下に積んだ本が崩れ、浴室の戸が開かなくなり、閉じ込められた時のことが、表題の「本が崩れる」の話である。
 この話の発端に、突然、三田の大学にある演説館の思い出がでてくる。
 三田にある演説館は、我が国初の演説会堂として福澤諭吉が建設した建物で、都内に現存する最古の洋館ということでお、国の重要文化財となっている。外観は、土蔵の腰に用いられるなまこ壁に、洋館風の玄関というが特徴的な和洋折衷風の小さな建物で、キャンパスの片隅の木立の中に、ひっそりと建っている。
 私がいたのは、4階にある教員室なのだが、外面はガラス張りとなっていて、ここから、この演説館の瓦葺きの屋根が見えている。
 草森さんは、浴室に閉じ込められたことにより、若かりしころ、この演説館で遭遇した出来事を思い出す。演説館での講演を終えた評論家の吉田健一が演壇の脇にあるドアから出ようと、ノブを回したのだが、ガチャガチャと何回も回しても開かなかった。このときのおかしさを浴室に閉じ込められた我が身になぞらえているのである。
 独り身の老人が、本が崩れて戸が開かなくなり、浴室に閉じ込められるというのは、結構、スリリングな状況である。なまじの冒険小説よりも面白い。確か、紀田順一郎さんの推理小説にも本が崩れてくるという話があった。
 草森さんの弁によれば、蔵書が増殖していくのは、読書家だからではなく、資料として、持っていないと物が書けないという強迫観念からだという。
 そういえば、紀田さんもそうなのかなと、あいつもそうなのかなと次々と蔵書家の知人の顔が浮かんでくる。
 自分はどうかというと、古書店巡りなどはほとんどしないが、今、買って置かないと、次に手にいれるのが面倒だという強迫観念があることは間違いない。ただ、埋もれるほどの蔵書になるかなというと、埋もれる前に妻から家を追い出されるか、本を捨てられるかのどちらかだし、まして、物書きではないというのが決定的に異なるところ。
 
 この本の表題には、「随筆」とあるが、150ページにわたるこの文章は随筆かなと思っていると、次のような文章が登場する。 
 「随筆といえば、『枕草子』や『徒然草』を人は想い出すので、短いものと決めてかかっているが、あれらは中国流には「雑記」「小説」に属すというべきだ。そもそも「随筆」に短いも長いも、あったものであるまい。」(p85)

 「本が崩れる」のほかに、「素手もグローブ」では自分の草野球経験を、「喫煙夜話」では最近の禁煙の風潮に反旗を翻している。後者は、肩身の狭くなっている喫煙派にとっては爽快な気分になる内容であるが、煙草を吸わない者にとっては可愛い犬の遠吠えにしか聞こえない。
 
 「秀吉の朝鮮征伐における初心の動機を陶芸漁りにあるのではないか」とか(p28)、平田篤胤の墓のある秋田の手形山とか(p81)、永井荷風の喫煙風景の写真とか(p141)に、話が転々としていく、草森さんの心地よい博覧強記に感嘆してしまう。
 草森さんも紀田さんも、大学のクラブの先輩なのだが、草森さんには、まだ、お目にかかったことはない。

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2005年10月21日 (金)

『地獄に堕ちた勇者ども』

2005年10月21日(金)
『地獄に堕ちた勇者ども』 ルキノ・ヴィスコンティ監督 

 夕方、テニスをしている最中に、左足のふくらはぎに肉離れをおこしてしまった。
 アイシングをしながら、しばらく様子をみていたが、痛みがひかないので、早々と帰ることにした。
 今日は、早くコートに着いたので、準備運動もきちっとし、身体も結構動き、いい感じでストロークを打っていたら、ふくらはぎにボールを直撃されたような衝撃を感じた。怪我をするのは、このような時かもしれない。
 足以外は体調がすこぶるいいので、このような日は、ヴィスコンティの映画だと決め、『地獄に墜ちた勇者ども』を観ることにした。原題は、The Damned、唾棄すべきやつらということなのだろうが、邦題とはだいぶ感じが異なる。。

 色鮮やかな赤が画面全体がほとばしるタイトルバック、次第にその赤は鉄が燃えている色であることが判ってくる。
 小学生の時に社会科見学行った製鉄所と同じ光景であった。私の小学生時代は、1950年代であるが、この映画の時代背景は、ナチスが台頭する1930年代初めである。
 ナチスの台頭する1930年代、ドイツの製鉄王ヨアヒム・フォン・エッセンベック男爵一族にもナチスの影がしのびよってきている。支配人フリードリッヒ(ダーク・ボガート)は、男爵の子息の未亡人ソフィと愛人関係にあり、男爵の地位を狙っている。ソフィの息子マーチンは、女装趣味の性格異常者。エッセンベックの亡き後、会社の支配をしようとする甥のコンスタンチン男爵、そして、姪の娘エリザベート(C・ランブリング)の自由主義者の夫ヘルベルトはナチスの迫害を逃れうようと逃亡を図る。
 ナチスの国会焼き討ち事件の日、ヨアヒム男爵が殺され、犯人は逃亡したヘルベルトとされる。
 このあたりまでは、ストーリーはすんなり頭に入るのだが、その後の話はよく理解できない。
 ヨアヒム亡き後、遺言により、マーチンが相続人となり、フリードリッヒとソフィーが会社の実権を握る。これに激怒したコンスタンチんであるが、ナチスの親衛隊が突撃隊を襲うという、血の粛清事件が起こり、突撃隊の幹部であったコンスタンチンも殺される。
 突撃隊とナチスの関係の知識がない上に、突撃隊のパーティも、男色の世界の様相を呈している。
 ヴィスコンティらしい、絢爛な世界の怪しさは何ともいえない魅力に溢れていて、感性的には何となく分かるような気もするのだが、何故、ユダヤ人が迫害されたのかということがよく理解できないようない、ナチスと突撃隊の関係もいまいち分からない。
 この映画を理解するには、ヨーロッパの歴史やヨーロッパ人の意識を勉強することが不可欠と思うのだが、ここらへんの知識がこちらには皆無なので、絢爛な怪しさの上っ面を楽しむことしかできない。おそらく、ナチスの台頭と貴族社会の崩壊とは密接な関係にあることを意味しているだろうとは思うのだが・・・

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2005年10月16日 (日)

プレー・オフ第2ステージ

○2005年10月13日(木)

プレー・オフ第2ステージ

 福岡での仕事が終わったのは、午後6時15分であった。
 プレー・オフ第2ステージ「ソフト・バンク×ロッテ」の第2戦を観に行ってみようかと思い、ヤフー・ドームのチケットセンターに電話をした。今から、行ってもチケットがあるだろうかと聞いたら、分からないという。チケット売り場とは場所が違い、まだ、完売の連絡はきていないが、チケットが残っているかどうかは確認できないという。売り場には電話はないとのことであった。
 とりあえず、球場まで行ってみようと思いタクシーに乗った。ラジオでは、まだ、1回の裏を中継している最中、両軍ともに無得点であった。
 球場のチケット売り場に行くと、8000円と6500円の席が残っていた。どちらにするかなと眺めていたら。若い男に声を掛けられた。内野のB席を2000円買わないかとという。内野のBといえばどこの席か、定価はいくらか、こいつはダフ屋かという思いが、一瞬に駆けめぐった。家族3人で見に来る予定が、一人、ダメになったという。2000円ならばいいかと思い、2000円を支払って、チケットを手にした。
 一塁側のポール際、内野といっても、外野席、ポールの真後ろあたりの席である。反対側の外野席には、オリオンズの応援席があった。ホークスのファンに囲まれての観戦もしんどいなと思いもあったが、時間が経つうちに、三塁側も、オリオンズの応援席の一画以外はすべてホークス・ファンであることが分かってきた。この様子では、3塁であろうが、1塁であろうが、どこで観ようと肩身が狭いのは同じである。
 試合は、清水、斎藤の投手戦であったが、ホークスがホームランで1点を取った後、満塁で、フランコの痛烈なヒットで逆転した。心の内で、快哉を叫びながら、静かに観戦し、試合は終了した。
 球場からの帰りは、人の多さで、時間がかかりそうなので、シーホーク・ホテルの寿司屋に立ち寄る。カウンターの隣にいるおばさんは、熱狂的なホークス・ファンらしいのでも、ここでもおとなしく一人で酒を飲む。隣のおばさんも、カウンターの中のお兄さんも、タイガース・ファンとは違って、ホークスファンはおとなしいからというのであったが・・・

 

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2005年10月14日 (金)

長崎県美術館

○2005年10月14日(金)
 
 福岡にきたついでに、長崎県美術館に行ってみようかと思い、電車で長崎に向かった。 ついでと書いたが、電車で2時間かかるということを知ったのは、長崎のホテルの予約してからである。
 今になって地図を見て、その距離を確認している。何となく、長崎の位置を島原半島側の内海に面している町とイメージしていた。長崎が鎖国をしていた日本の唯一の海外の窓口になっていたことからして、外海に面している港町であって当然なのだが、どういうわけか、このような認識がなかった。
 長崎は暑かった。まだ、30度を超える日が続いているという。
 4月に開館した長崎県美術館は、海に面する水辺の森公園の一画にあった。
 長崎県美術館は、第二次世界大戦中にスペイン全権大使だった須磨弥吉郎が収集したスペイン美術のコレクションを500点余り所蔵していることから、スペイン美術を中心とした展示を行っている。
 須磨コレクションには、ゴヤ、グレコ、ラスケスなどの作とされる絵画含まれ、長崎県美術館は「スペイン美術巨匠展」としてこれらの絵画を展示したことがあるが、その後、そのほとんどが模写とされ、作者不詳として扱われることになったいわくがついている。ただ、このような経緯があっても、須磨コレクションは、中世から近世の作品が地方別、年代順にそろっており、価値があるものらしい。
 今回の展示は、「スペイン美術の現在」、第1部は「ピカソから21世紀へ─国内所蔵作品に見るスペイン美術の冒険」、第2部は「抽象と写実─スペインからのメッセージ」である。
 第1部には、日本国内で所蔵されているピカソ、ミロ、ダリらの作品が並んでいた。作品の出来や系譜にはばらつきがあるが、日本国内にもこれだけの作品があるのだなとあらためて日本の豊かさを再認識した。
 抽象的な造形を見慣れた目には、作者名は忘れてしまったが、写真のように精緻な写実の裸婦や緑の庭の風景画が妙に印象に残った。

 長崎の港には、大きな豪華客船が係留していた。船の名前を確認すると、船首にダイヤモンド・プリンセスと書かれていた。
 ホテルにチェックインをした後、クラバー園を歩いたが、客船に乗ってきた観光客らしく、年配の白人客が目についた。
 夕方、大きな汽笛が響き、船は出航した。ホテルがそのまま移動する船の旅はのんびりとして魅惑的であるが、地元からすると、観光で通り過ぎるだけで、地元にもたらす経済効果は大したことはないのだろう。

 ホテルに戻って、一休みしてから、市電に乗り、思案橋方面にでかける。どこか、おいしそうな居酒屋がないかと路地を歩いていたら「一二三亭」という看板が目についた。中をのぞくと、おばさんが3人カウンターの中におり、カウンターにはえびの唐揚、おからしろあえなどが盛られた器がならんでいる。牛かんと五島の原酒のひやおろしがおいしかった。落ち着いた居酒屋であった。

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2005年10月 9日 (日)

パリーグ・プレー・オフ「ロッテ×西武」

○2005年10月9日(日) 

パリーグ・プレー・オフ「ロッテ×西武」

 8日の朝刊を観て目を疑ってしまった。
 今日から、パリーグのプレー・オフの第1ステージ「ロッテ×西武」の試合の中継をするテレビ局がないのである。NHKは、大リーグのエンゼルス×ヤンキースの試合をBSで放送し、さらに地上波でも放映するとある。
 西武の地元であるテレビ埼玉も、ロッテの地元であるちばテレビも放映しない。
 それでは、ラジオはどうかと思い、ラジオ欄をみても、野球の中継はない。
 今日は、テレビ朝日が、午後4時からの1時間30分の放映枠があり、テレビ観戦を堪能した。午後2時からの試合であるから、録画放映である。
  小林宏と西口の緊迫した投手戦であった。三塁強襲の打球に飛びついて、1塁ランナーを封殺した今江の守備、セーフにはなったが、セカンド堀の中継プレーと、すばらしい守備が目に引いた。
  8日の第1戦も、渡辺俊と松坂の投げ合う投手戦、ロッテ西岡の再三にわたる好守備があったのだが、テレビで観ることはできなかった。
  昨年、2リーグ制存亡の危機に、プロ野球は公共財という意見がマスコミを飛び交った。阪神の上場問題を機に、昨年1リーグ制を画策した球団の首脳の「球団は公共財」という談話が新聞に掲載されている。
  結局、視聴率という資本の論理に帰するということなのだろうが、魅力あるプロ野球を育て、視聴者を増やすという視点が、プロ野球機構に球団首脳にもテレビ局にも皆無である。
  とりわけ、受信料の不払いが問題となっているNHKは問題である。高い放映権料を払って大リーグ中継をすることと、プレーオフを放映すること、どちらが、公共放送の役目に資するかは、明らかである。
  放映権の関係で、NHKは放映できなかったのかもしれないが、コミッショナーやパリーグ会長は、果たして、放映のための努力をしなかったのであろうか。
  NHKがこのような壁を乗り越えて、放映をすることこそが、本当に国民から愛される公共放送となることのできる試金石であったように思われて仕方がない。
  これは、ロッテ・ファンの小さな願いだけではない、交流戦で大したタイガース・ファンでさえ、ロッテの応援のすばらしさをほめていた。
  統制のとれた応援団の声だけではない、バッターの打つときの静けさを聞いてほしい。野球観戦の醍醐味は、この静けさから、打球の音とともに生じる声援、悲鳴、ため息、どよめきに至る世界に浸ることにある。耳をつんざく鳴り物が応援ではない。
  ロッテの試合が放映されることにより、真の野球ファンが一人でも多く球場を訪れるようになるといいと願っている。
 
 

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2005年10月 7日 (金)

 『ある日系人の肖像』

○2005年10月7日(金)
 『ある日系人の肖像』 ニーナ・ルヴォワル (扶桑社ミステリー)

 ジャッキー・イシダは、カリフォルニア大学L.A校の三年生である。大手ロー・ファームの就職も決まり、ジャッキーの悩みは、ぎこちなくなっている恋人のローラとの関係であった。亡くなった祖父フランク・ナカイの遺言には、カーティス・マーティンデイルに、店を遺すとあった。フランクはクレンショー地区で食料雑貨店を営んでいたが、1960年代、ワッツ地区で起きた黒人暴動の後、店を手放し、引っ越しており、遺族の誰も、カーティスのことは知らない。店の代金とおぼしき現金3万8000ドルも遺されていた。
 カーティスのことを調べてほしいとの叔母の願いを受け、ジャッキーはフランクのかつて住んでいた街を訪れる。カーティスは、フランクの店を手伝っていた黒人の少年で、ワッツの暴動の後、冷蔵庫で凍死したカーティスを含む4人の少年が発見されるが、犯人は捕まっていない。
 暴動当時、少年たちがいる店に警官がいたことが目撃されている。ジャッキーは、カーティスのいとこのジェームズ・ラニアと、当時の事情を知る人たちの話を聞きにいく。

 物語は、ジャッキーの生きるカリフォルニアの大地震のあった直後、1994年の今という時代から、ワッツ暴動起きた60年代のフランクたち日系人の生活、さらに、日本が米国と戦争を始めたことにより、収容所に強制的に隔離された日系人の生活、欧州戦線に従軍し、戦ったフランクたちの日系人部隊の世界の40年代と、交互に描かれ、日系人であるフランクの生涯が淡々と描かれているのだが、そこには、まさしく、「ある日系人の肖像」というミステリとしては地味なタイトルではあるが、邦題の所以にふさわしい内容になっている。但し、原題は、「サウスランド」とさらにそっけないのだが、この小説のモチーフである人種差別の象徴として、ロス・アンジェルスの南部地区とアメリカの南部と掛け合わせたようにも思えるのだが、私個人の勝手な思いつきの推測である。
 ただ、この小説は、日系人の受けた差別を正面から描いたようにようにも見えるのだが、本題は、さらに差別を受けている黒人の少年が受けた思いのほうがより強く迫ってくる。
 それでも、黒人差別の知識をもっていても、アメリカで日系人受けた差別について知る日本人は少ない。アメリカと戦争をしたことすら忘れ去ってしまっているのだから、仕方がないのかもしれないが、今、一度、このような小説を読むことによって、アメリカのもつ歴史の暗い側面を再認識しておくいい機会になる。
 ジャッキーの同性の恋人との関係の描かれ方も非常に新鮮であり、やや重くなりがちなストーリーに親近感を抱かせる。今年の推奨ミステリの1冊である。

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2005年10月 3日 (月)

『父 荷風』  

○2005年10月3日(月)
『父 荷風』 永井永光 白水社

 銀座6丁目に「徧喜舘」というバーがある。このバーのオーナーが永井永光さんである。永井さんが、荷風の養子で、荷風が晩年を過ごした市川の家に住んでいることは知っていたが、カウンターの中にいる永井さんと荷風の話をしたことはなかった。
 荷風の名前は知っていても、読んだのは「濹東綺譚」などの1ー2冊であるから、荷風のことを話す機会があっても、上っ面な話しかできないので、永井さんにとっては迷惑なことだったと思っている。
 永井さんが荷風の養子であるということに、永井さんと荷風のイメージから、うまくつながらなかったことも、話題にすることを遠慮した一因であったかもしれない。
 
 『父 荷風』は、6月10日に発行されている。私が書店で求めたのは、8月のことであるが、すでに3刷となっていた。このところ、荷風にかかわる本がよく出版されているが、今でも、荷風に対する関心が強いことが伺われるが、奥付に3刷りとあることに、荷風人気を再認識した。

 「父 荷風」の表題である。父は赤字、荷風は黒字となっている。この色の違いが、永井さんと荷風の関係を示している。
 荷風が亡くなったのは、昭和34年4月30日のことである。一人暮らしの独居死であった。独居死をしたことについては、当時の新聞で読んだのかははっきりしないが、私の記憶の中にもある。
 永井さんが荷風の養子になったのは、昭和19年、11歳、荷風が64歳のときである。永井さんの実父大嶋一雄は、杵屋五叟という名をもつ長唄人。荷風のいとこで、親戚を嫌っていた荷風が唯一親しくしていた一雄と荷風が永井さんを養子としたのである。養子といっても、永井さんは実父母と生活を共にし、荷風が戦災に会い、一雄さん一家の家に住んだとき以外、一緒に住んだことはない。
 昭和30年頃、荷風と一雄が仲違いをしたことから、荷風は永井さんとの養子縁組の解消をしようとした。一雄は、荷風のわがままと考えていたようだが、永井さんは、11歳のときに、永井姓を名乗らされ、10年以上使ってきた姓をまた変えることになとして、養子縁組を解消することを断り、解消の話は亡くなった。
 荷風の臨終の写真を新聞記者が撮っている。独居していた部屋は汚れていた。文化勲章を受章し、芸術院会員の孤独死であった。しかも、荷風は芸術院会員の手当や、原稿料の収入で、資産家となっていた。著作権の相続のことなどもあり、永井さんは、「突然の遺産が転がり込んだ生意気な若造」ということで、週刊誌にあることないことを書かれた。

 荷風は、死ぬ間際まで「断腸亭日乗」とする日誌を書いていることは有名である。永井さんの実父の一雄も同時期に、「五叟遺文」とする日誌を短期間ながら書いている。
 永井さんは、永井さんが見た荷風の実像を語りながら、「断腸亭日乗」を引用し、「五叟遺文」から父一雄のみる荷風の姿を描いている。
 永井さんにとって、今だからこそ書けたこともあるだろうし、今こそ、書いておかなければという思いのこともあるのだろうと思いながら、この本を読んだ。

 荷風が晩年を過ごした市川に住んでいた「近所の有名人」として、永井さんは、浪曲研究家の正岡容のことに触れている。荷風が正岡の家を訪れたことがある。正岡は、「永井荷風先生来書。一家驚喜。」と書いている。(p156)。
 正岡容は、推理作家の都筑道夫が師と仰ぐ作家である。荷風を正岡宅を訪れたとき、都筑が居合わせたことがある。都筑は、都筑の半自伝的エッセイ「推理作家のできるまで」(フリースタイル社)でこのあたりのことを書いている。
 小説家の正岡は、短編集「円太郎馬車」、長編小説「寄席」「円朝」、随筆「寄席風俗」「寄席囃子」なぞの小説で、当時(戦前・戦中)の若い人たちに人気があった。荷風は、正岡にというより、正岡の妻で、ダンス芸者として有名であった花園歌子の花園流新舞踊の家元になっている姿に興味をもって、正岡の家を訪れたのであるが、荷風の知遇を得たこと、あるいは得たと思いこんだことにより、正岡の書くものが、軽妙な読み物から、やたらに難しい字の並んだ荷風ばりの物となってしまい、小説が書けなくなっていた(上巻・p337以下、p545以下)。

  「徧喜舘」は、荷風が戦前麻布に住んでいた家「偏奇館」の名称にちなんで、一雄が永井さんが開いたバーに命名したものである。偏(かたよる)ではなく、徧(あまねく)である。奇ではなく喜である。
「徧喜舘」で飲むと、客は、帰り際、「いってらっしゃい」の声で送り出される。久しぶりに、永井さんの声を聞きに行きたくなった。

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