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2005年10月26日 (水)

『随筆 本が崩れる』 

2005年10月26日(水)
 『随筆 本が崩れる』 草森紳一 文春新書

 久しぶりに、三田にある大学に出かけた。学生時代にたむろった雀荘も、茶店もなくなり、昔日の面影と言えば通りの狭さくらいしかない仲通りを抜け、横断歩道をわたったところに大学がある。その角には、花市場があったのだが、そこも更地になっている。
 30年まえにもあった南校舎の下をくぐり、左手に曲がっていくと、新築の法科大学院の校舎が見えてきた。今日は、友人が担当している法交渉学の講義の手伝いである。
 約束の時間より、少し早かったので、草森伸一郎さんの『随筆 本が崩れる』を読み始めた。草森さんの職業は物書きであるが、何を専門とするのかはしかとは知らない。膨大な知識と膨大な書籍をもっていることには定評がある人である。
 この本によると、草森さんは、2DKらしきマンションに、2万冊以上の蔵書を置いているらしい。したがってというか、当然のことながら、本箱だけではなく、家中に本が溢れており、本に埋もれて、その透き間で生活をしているのである。
 ある日、草森さんは、風呂に入ろうと浴室に入ったところが、廊下に積んだ本が崩れ、浴室の戸が開かなくなり、閉じ込められた時のことが、表題の「本が崩れる」の話である。
 この話の発端に、突然、三田の大学にある演説館の思い出がでてくる。
 三田にある演説館は、我が国初の演説会堂として福澤諭吉が建設した建物で、都内に現存する最古の洋館ということでお、国の重要文化財となっている。外観は、土蔵の腰に用いられるなまこ壁に、洋館風の玄関というが特徴的な和洋折衷風の小さな建物で、キャンパスの片隅の木立の中に、ひっそりと建っている。
 私がいたのは、4階にある教員室なのだが、外面はガラス張りとなっていて、ここから、この演説館の瓦葺きの屋根が見えている。
 草森さんは、浴室に閉じ込められたことにより、若かりしころ、この演説館で遭遇した出来事を思い出す。演説館での講演を終えた評論家の吉田健一が演壇の脇にあるドアから出ようと、ノブを回したのだが、ガチャガチャと何回も回しても開かなかった。このときのおかしさを浴室に閉じ込められた我が身になぞらえているのである。
 独り身の老人が、本が崩れて戸が開かなくなり、浴室に閉じ込められるというのは、結構、スリリングな状況である。なまじの冒険小説よりも面白い。確か、紀田順一郎さんの推理小説にも本が崩れてくるという話があった。
 草森さんの弁によれば、蔵書が増殖していくのは、読書家だからではなく、資料として、持っていないと物が書けないという強迫観念からだという。
 そういえば、紀田さんもそうなのかなと、あいつもそうなのかなと次々と蔵書家の知人の顔が浮かんでくる。
 自分はどうかというと、古書店巡りなどはほとんどしないが、今、買って置かないと、次に手にいれるのが面倒だという強迫観念があることは間違いない。ただ、埋もれるほどの蔵書になるかなというと、埋もれる前に妻から家を追い出されるか、本を捨てられるかのどちらかだし、まして、物書きではないというのが決定的に異なるところ。
 
 この本の表題には、「随筆」とあるが、150ページにわたるこの文章は随筆かなと思っていると、次のような文章が登場する。 
 「随筆といえば、『枕草子』や『徒然草』を人は想い出すので、短いものと決めてかかっているが、あれらは中国流には「雑記」「小説」に属すというべきだ。そもそも「随筆」に短いも長いも、あったものであるまい。」(p85)

 「本が崩れる」のほかに、「素手もグローブ」では自分の草野球経験を、「喫煙夜話」では最近の禁煙の風潮に反旗を翻している。後者は、肩身の狭くなっている喫煙派にとっては爽快な気分になる内容であるが、煙草を吸わない者にとっては可愛い犬の遠吠えにしか聞こえない。
 
 「秀吉の朝鮮征伐における初心の動機を陶芸漁りにあるのではないか」とか(p28)、平田篤胤の墓のある秋田の手形山とか(p81)、永井荷風の喫煙風景の写真とか(p141)に、話が転々としていく、草森さんの心地よい博覧強記に感嘆してしまう。
 草森さんも紀田さんも、大学のクラブの先輩なのだが、草森さんには、まだ、お目にかかったことはない。

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