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2005年12月22日 (木)

『メッセージ』

○2005年12月22日(木)

     『メッセージ』
      マークス・ズーサック ランダムハウス講談社文庫
   
    何となく手にした本が当たりのときは、格別である。最近登場したランダムハウス講談社文庫の『メッセージ』がそれである。
    「この強盗はどじだ。」が冒頭の一節。
     主人公のエド・ケネディが銀行強盗の現場に居合わせてしまったのだ。強盗に銃を突きつけられながらも、ユーモアたっぷりに、のんびりと話は始まる。
     将来に夢も希望もないしがない19歳のタクシー運転手は、ひょんなはずみ強盗の逮捕とい手柄を立てて一躍、街の有名人となる。
     エドには、ドアマンというとぼけた名前のロットワイラーとジャーマン・シェパードの雑種の老犬と同居している。友達のオードリーに首たっけなのだが、オードリーはただの友達としか思っていない。
     そんなエドに、ダイヤのエースのトランプ・カードが届く。カードには、3つの住所が書かれていた。
     その住所には、何が・・・と話が進んでいく。
     次々と届くカードには、謎めいた文字が書かれている。
     カードの文字に導かれるままに、エドは、悩みや苦しみを持つ人たちを癒していく。DVに怯える妻、ひとりさびしく食事を取る老女、裸足で走る少女、さびれたスラム街の教会のために、できることは何かとエドは考えていく。
     2004年度のオーストラリア児童図書賞を受賞した作品であるから、子供向けの小説であり、他愛もない話である。
     でも、ひねくれた小説読みの私でも、素直に楽しみながら読むことができた。クリスマス・シーズンにふさわしい神様からの贈り物であった。
     3枚目のカードに書かれていたのは、グレアム・グリーン、モリス・ウェスト、シルヴィァ・プラスという3つの名前である。私は、グリーンしか分らなかった。エドが知っていたのは、詩人のプラス。では、モリス・ウェストは?
   
     エドが、貸し切りの映画館で、オードリーと二人で観る映画、これがなんと、「暴力脱獄」なのである。
   
    ”スクリーンが転倒し、ぼくは『暴力脱獄』の有名な場面、ルークがとうとう抵抗をあきらめ、仲間たちから見捨てられる場面を待っていた。ルークが寝台の足もとから、「神様、どこにいるのですか!?」と叫ぶシーンを待ち受けた。”(下巻、139p)

      こどもには、高尚すぎる気もするのだが、このような本が児童図書賞を取るというのは・・・

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2005年12月21日 (水)

『カリフォルニア・ガール』

○2005年12月21日(水)

  『カリフォルニア・ガール』      T・ジェファーソン・パーカー 早川書房

”テレビではベトナム関連のニュースが報じられていた。今日のわが国の人的被害は死者二十二名と発表されました。九月の戦死者の総数は五百三十九名です。この"紛争"でこれまでに一万八千四百八十名が犠牲となりました。敵の今日の死者数は二十六名です。次に、ジヨンソン大統領が画面に登場し、アメリカの決意は今後揺らぐことも変わることもないと述べた。
 続いて、村を救うために村そのものを破壊するという論埋について、ふたりのニュースキャスターが意見を戦わせた。
 画面がコマーシャル・・・・バニラクリームがよりクリーミーになった新しい<オレオ>・・・に切り替わると”   (p168)

 1968年10月、カリフォルニア州南西部の町で、頭を切り落とされた若い女性の死体が発見される。
 被害者のジャニル・ヴォンは、保安官事務所の部長刑事であるニック・べーカーの幼なじみであった。べーカーの4兄弟は、ヴォンの兄弟と殴り合いのけんかとなり、父親につられて、ヴォンの家を訪れたことがあった。ヴォンの家は貧しく、末娘のジャニルは、虐待を受けているように見えた。
 その後、ジャニルは家を出、町のミス・コンテストに選ばれたが、プレーボーイ誌のカバーガールになり、ミスの冠を剥奪されていた。
 カリフォルニア・ガールとは、オレンジの出荷用の木箱に貼られたラベル「オレンジを手にする漆黒の髪の美女」である。カリフォルニアの明るい太陽のもと、底抜けに明るいイメージをふりまく若い女性である。
 1965年にリリースされたビーチボーイズの代表的なヒット曲「カリフォルニア・ガール」は、「ウェスト・コーストには太陽があり、女の子はみんな小麦色」「アメリカに帰って、世界一キュートな女の子に会いに行こう」と歌っていった。
 この曲がリリースされた1965年は、アメリカが北ヴェトナムに爆撃を開始した年である。ヴェトナム戦争を開始した当初のアメリカは、強いアメリカを信じていた。ヴェトナム戦争の配色が濃くなり、厭戦気分に陥っていくのは、この後である。
 小説『カリフォルニア・ガール』は、カリフォルニア・ガールのジャニルの生と死の真相を軸に、べーカー兄弟が生きてきたアメリカという時代の実相を描いている。
 殺人の容疑者とされ、犯人として刑を受けたのは、現場近くにいたホームレスの男テリーであった。ニックは、テリーの容疑に疑問を持ちながらも、テリーを犯人とした。ニックの弟で、新聞記者であるアンディも独自に調査を進める。牧師となった長兄ディヴィッド、そして、CIAに入り、ヴェトナムで戦死した三男のクレイたち、4人の人生、生き様が物語に厚みを増している。
 何の変哲のないアメリカの一地方都市が、アメリカという国の中にどのように取り込まれているのか。
 この小説は、2004年という現在から、過去を振り返り、現在にいたって判明した真相へと長い時代をまたがっている。
 2004年という時代からすれば、アメリカは、ヴェトナム戦争の時代を忘れてしまい、9.11同時多発テロに関心が移り、テロ防止のためには、無差別な監視や盗聴などを正当化し、自己が正しいとする正義の御旗を振り続けている。
 今、何故、ヴェトナム戦争か。
 この時代を知る著者は、9.11ではなく、ヴェトナム戦争の時代を描くことこそ、今のアメリカにとって大切なことであるとしているに違いない。

” テトニー(FBIの捜査官)はさらに言葉を続けた。わたしたちは犯罪者のように考える術を身につけなければなりません。なぜなら、最近わが国で発生する殺人事件に"質の変化"が見られるからです。これまで人々は、お互い知り合いで近くに住んでいる人問に殺されていました。いまでは社会が流動的になり、それに合わせて新しい種類の殺人が起きる可能性が高まっています。いわゆる"行きずりの殺人"と呼ばれるものです。犯人は面識のない人問を犠牲者に選びます。それも、性的衡動に駆られて犯行に及ぶケースが多いのです。今後十年問にアメリカ社会はますます流動的になり、その一方でますます安定性を朱うでしょう。殺人事件の発生率は上昇し、解決率は低下するでしょう。流動性の増大と安定性の減少は、白由で豊かた杜会の証しと見なされていますが、それは同時に、礼会のパランスを保っている昔ながらの伝統や慣習の衰退を招くことにもなるのです。
 それはそれとして、テトニーの言うとおりだ。変化はすでに始まっている。これまでは、国がまずい方向に向かっているという漠然とした思いを、テトニーの言う社会の流動化と結びつけて考えたことは一度もなかった。
 それでも昨年あたりから、杜会は今後ますます混迷の相を深めていくのではと危惧の念を抱いていた。べトナムでは、村を救うために村そのものを破壊している。国の対外政策として相互確証破壊戦略(他国からの核攻撃にそなえ、相手を確実に壊滅できるだけの報復核戦力を保持して相互抑止を狙う戦略)がとられている。国内では合成ヘロインからLSDまで麻薬が蔓延し、警官が殺されている。村だけでなく、自H分たちの心を、自分たたち暮らす街を、世界を焼き払おうとしている。”(p276)

 グローバル化という名の下に、日本はここ30年、大きく変わってきた。それによって、もたらされたものは、30数年前からアメリカが経験してきたことを、確実に後追いしているといえるだろう。

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2005年12月18日 (日)

『絵はがきにされた少年』

2005年12月18日
 『絵はがきにされた少年』 藤原章生 集英社

 ”私はどうもこの「見出しどころ」にうとい。
やっかいなのは、はっきりと言い切れないことに、意味づけを求める人が結構いることだ。
自分で納得できないことは胸の奥につかえる。、なら、いっそのこと「これはこういう意味だ」と勝手な解釈を加えて、つかえたものを流してしまう。その方が楽だ。
 だが、私はわからないことは胸につかえたままでいいではないか、と、思う方だ。現実を現実として放っておく方だ。答などないにしても、いずれは、それに一歩近づくときが来る、と思うからだ。”(p107)

 開高健ノンフィクション賞受賞作である。
 ノンフィクションというより、新聞記者である筆者が特派員としてアフリカで取材をしている中で感じたこと、考えたことを綴ったエッセイ、随想といった類の本である。
 ノンフィクションというと、真相はこうだ、といった類の本が多い。内容がセンセーショナルで、さらに、一言で説明できるものが、話題になり、売れる時代である。
 しかし、著者が辿り着いた真相とは、本当に真実なのであろうか、著者にとって真実と見えたものにすぎないかもしれないし、1冊の本にするにあたって、意識的にであれ、無意識にであれ、頭の隅にある疑念を振り払い、読者受けをする内容にすることはないのだろうか。
 この本には、新聞には書けないこと、一片の新聞記事では伝えきれない思いが込められている。
 冒頭の文章は、東京の本社から、南アフリカにいる著者に、「情報と二十世紀」というタイトルで、アフリカを舞台の記事を書くようにいわれたときのものである。
 私であれば、東京のデスクのイメージするアフリカからすれば、情報の南北格差とか、アフリカでもこのような情報社会が進んでいるというようなことを取材し、書こうとするだろう。日本の読者が、このような記事を読めばアフリカの一断面を得心することを期待する。しかし、そこにどのように面白く、興味深いことが書かれていたとしても、アフリカの現実を伝えることにはならない。しかし、面白く、興味深いものでなければ、記事にはならない。
 しかし、著者は、声高に、このことを批判することはしない。日々の紋切り方の記事に流されず、アフリカで著者が感じたことを、素直にそのまま伝えようとし、伝えきれないもどかしさを伝えようとしている。
 
 ワンフレーズの言葉が世の中を動かしている。ワンフレーズでは伝えきれないこと、切り捨てられてしまうことの方が多いのに、マスコミも含めて、我々は、ワンフレーズで物事を理解しようとする。
 著者が語ろうとしているのは、アフリカのことであって、アフリカのことではないのではないか。言葉で伝えることの難しさとそれでも伝えようとすることの大切さである。

PS.この本を購入された方は、カバーを外して、本体の表紙を眺めてください。アフリカのこどもたちのきらきらした顔の写真です。この本を読んでも、カバーを外す人は少ない。装丁者は、どちらをメインの装丁と考えているのかと、考えるのも一興です。

 

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2005年12月16日 (金)

『阿片王 満州の夜と霧』

○2005年12月16日(金)

 『阿片王 満州の夜と霧』 佐野眞一 新潮社

 麻薬を売る、偽札を作ることに関与し、資金を稼ぐ国は、どこかといえば、誰しもが思い浮かべるであろう国がある。
 しかし、つい6-70年前には、日本も、麻薬を売り、偽札を作っていたのである。佐野眞一の『阿片王』は、満州に渡り、日本が植民地支配を図った満州国通信社(国通)を作った、上海を根城に阿片の密売にかかわった里見甫(はじめ)の生涯を通じて、満州国ができた経緯、満州で培われた文化や人脈が、戦後の日本の復興の一翼を担うとともに、満州国の暗部に蓋をする形で、文化が日本に移入されてきていることをまざまざと見せつける。

 大正12年(1923)9月の関東大震災直後、無政府主義者の大杉栄とその家族を殺害した甘粕正彦は、満州に渡って暗躍し、最後は満州映画協会の理事長になった(p10)。

 阿倍晋三の祖父の岸信介は、産業部次長として、満州に赴任し、満州国の経済政策の柱となる満州開発5ヵ年計画を立てた(p9)。岸は、戦後、戦犯とされたが、日本の首相となり、国民の猛反対の中、60年日米安保条約の改定を実現した。

 「民族学は、図書館の分類で軍事の項目に隣接して設けられている。ここからもわかるように、辺境地域に居住する民族を研究の対象としてきた民族学は、その成立時から、軍事、とりわけ植民地統治の領域という宿命を負っていた。」(p28)

 日本の政府が1941年に設立した民族学研究所には、かつて騎馬民族日本征服説で有名になった江上波夫がいた。1944年、内蒙古に設立された西北研究所には、今西錦司、石田英一郎、梅棹忠夫たちがいたという。
 アジアに大東亜共栄圏を作ることを考えた軍部にとって、民族学は、「純粋な学術研究への思いとは別に、軍の宣撫工作や軍事戦略に少なからず寄与したことは否定できなかった。」(p20)

 戦前、日本には、聯合通信社と電報通信社があった。通信社の乱立による誤ったニュースの流布は、満州の国際的地位を低下させ、いたずらに人身の混乱を招くとして、満州における聯合と電通を統合した満州国通信社が設立される。この統合の実現したのは里見であるが、昭和11年には、日本国内においても、電聯合併による同盟通信が発足し、通信網を聯合に奪われた電通は、これ以降、広告取次専門会社となり、今日の電通となったのであるが、「里見の息のかかった元国通の社員たちが戦後、大挙して入社し、今日の電通の隆盛を築く礎となった。」(p118)
 
 佐野が執拗に追いかける里見の生涯にも謎が多く、興味がつきないところがあるが、時折、ノスタルジックに語られることの多い満州という国が、日本にとって、とりわけ、現在の日本にとって、極めて、重要な意味をもっていたのかを改めて気付かせてくれる1冊である。

 佐野は、この本のあとがきにつぎのように書いている。
 「昭和22(1947)生まれの私は、間もなく還暦を迎える典型的な団塊の世代である。団塊の世代とは、日本が貧しい頃を知る最後の世代であり、日本が豊かになったことを最初に実感した世代だったといっていいだろう。」
 「昭和30年代からはじまった高度経済成長は、われわれ日本人に何をもたらし、何を失なわせてきたのか。」

 団塊の世代として、次の世代に何を伝えていかなければならないのかの切実さが伝わってくる言葉である。
 団塊の世代は、高度経済成長の先兵であったが、それを作り上げ、甘い汁を吸ったのは、戦争を知る団塊の世代より、一世代前の世代であり、そのおこぼれを甘受していたにすぎないのではないだろうか。
 その団塊の世代さえ、60歳となろうとしている。
 学生時代の昂揚した気分は、貧しさから豊さえの時代への怖れ、不安の予感であったのではなかろうか。そして、今、その不安が予感から現実のものとなり、とらえどころのないものとなっている。
 このような時代であるからこそ、次の世代に伝えていかなければならないことがあるのではだろうか。

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2005年12月14日 (水)

『オラショとグレゴリオ聖歌』

○2005年12月14日(水)

『オラショとグレゴリオ聖歌』

 トイレに行きたくなって、目を覚ました。午前4時をまわったところである。二度寝をすべくベッドにもぐりこみ、ラジオをつけた。
 生月島(いきつきしま)の隠れ切支丹の話を立教大学の先生がしていた。生月島は、長崎の平戸島のさらに北西部に位置する島である。
 生月島には、時の権力に弾圧され、命懸けで信仰を守った「隠れ切支丹」の流れを守っている人達がおり、その人たちの話であった。彼らは、表向きは、神仏を祀っているのだが、納戸の奥に、マリアやキリストの像を祀り、祈りを捧げていた。そして、口承で、祈りや聖歌を伝えていたのだという。隠れ切支丹の祈りをオラショという。
 30年前に録音されたというオラショは、念仏やご詠歌のように聞こえるのだが、日本語ではなく、時折、サンタマリアなどのキリスト教にかかわる言葉がでてくる。
 グレゴリオ聖歌に魅せられ、ラテン語に精通しているその先生は、その歌詞はラテン語ではないかと考え、バチカンやスペイン、ポルトガルの聖歌の資料にあたり、その元となるものが、グレゴリオ聖歌であることをつきとめる。ただ、ひとつだけわからないものがあったのだが、それは、ポルトガルのある地方だけで歌われていた聖歌であったという。
グレゴリオ聖歌と30年前に生月島で録音されたそれらの歌が交互に流れてくる。
 400年間口伝えで伝えられた壱岐の隠れ切支丹の聖歌は、日本の旋律に変容しているが、それはまさしくグレゴリオ聖歌であった。
 ラテン語を解さない信者が口承で400年間営々と伝えてきたものの重さがじわっと伝わってくる。そして、それを自分たちのものにしていくなかで、ラテン語の信仰の世界がその地方の生活と一体となっていく。キリスト教を信じるものではなくても、そのすごさが感じられる。
 しかし、このように営々と400年にわたって続いてきた信仰が若い人につながらず、現在は、高齢者がかろうじて信仰がしているだけだという。
 400年間、営々と伝わってきたものが、ここ30年の時代の変転で呆気なく消えて行く。これもまた、人間の業のなしたものなのであろうか。この30年間の変転がもたらしたものの恐ろしさと、それに気付かない人たちの愚かさを思うと、今、この時代に生きていることが間違っているのではないかと感じつつ、ぬくぬくとしたベッドの中で、眠気が覚めていた。

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2005年12月11日 (日)

オールタイム・ミステリ・ベスト3

○2005年12月11日(日) 

オールタイム・ミステリ・ベスト3

 毎年、12月になると、ミステリ・マガジンの年間ミステリ・ベスト3のアンケートがくる。
 このアンケートのいいところは、集計しないところにある。作家、評論家、翻訳者など数十人のベスト3がコメント付で掲載される。従って、選者の個性がみえ、それ自体が読み物になっているし、選ばれる小説もヴァラエティに富んでいる。
 12月という忙しい時期にくるアンケートだが、ミステリ好きの仲間が見ると思うと、変なものは選べないという意識が働き、結構、真剣勝負の選択をし、コメントを書くことになる。
 今年は、16日が締め切り、今週は時間がなさそうなので、今晩、書くことにした。アンケート用紙が入った封筒には、今年1年間、といっても、雑誌の締め切りの関係で、昨年の12月から今年の11月までなのだが、1年間に出版された翻訳ミステリのリストが入っている。簡単な紹介文付きなので、この1年に読んだ本、読み落とした本を確認しながら選ぶことになる。
 今年は、このブログを書いているおかげで、何を選ぶか、コメントをどう書くか、というイメージもできているので、30分程度の作業でできるなと思っていたら、もう1枚、アンケート用紙が入っていた。
 ミステリ・マガジンが50周年を迎える記念特集でで、オールタイム・ミステリ・ベスト3を選ぶアンケート用紙であった。こちらの方は集計をするとしてしている。
 長編、短編、好きな作家のベスト3を選ぶかようになっている。
 1時間程度の時間でこれを選ぶのも大変と思ったが、集計をするということであれば、オーソドックスに選ぶしかないと、腹をくくった。
 年間ベスト3の方は、私のコメントも載るので、ミステリ・マガジンを読んでもらうことにして、オールタイム・ベスト3を次のように選んだ。

好きな長編ベスト3
① 『リトル・ドラマー・ガール』 ジョン・ル・カレ
② 『ウィチャリー家の女』 ロス・マクドナルド
③ 『 夜より暗き闇』       マイクル・コナリー

好きな短編ベスト3
① 『女か虎か』   フランク・R・ストックトン
②  南からきた男』 ロアルド・ダール
③ 『特別料理』   スタンリー・エリン

好きな作家ベスト3
① ロス・マクドナルド
② ジョン・ル・カレ
③ エド・マクベイン
 自分としては、非常に平凡な選び方だと思わなくはないのだが、オールタイムとなれば、相変わらず、クイーン、クリスティ、カーなどが登場してくるのだろうか、それとも、コリン・デクスター、P・D・ジェイムスなどが選ばれるのであろうか。
 このブログを書いていて、ローレンス・ブロックやマイケル・Z・リューインを入れてもよかったなと思っているのだが、それではどれを落とすのかなと考えだすと、落とすものがなく、結局、最初の選択に落ち着いてしまう。
 ただ、いえるのは、短編については、題名を覚えているのが、昔のものに偏っているので、ベスト3と断言するには苦しい選択である。

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2005年12月 8日 (木)

『嵐が丘』

○2005年12月8日(木)

『嵐が丘』 川井郁子

 浦和の駅から、歩いて7ー8分のところに、大学時代の同級生が小さなレコードショップを経営している。
 次の約束まで、1時間程度、時間が空いたので、久しぶりに寄ってみた。
女性の手を模した真鍮製のドアの取っ手を引くと、彼はパソコンに向かっていた。
 顔を合わせると、開口一番、浦和のショップは、山野とここだけになったといい、店は閉店していると思っていたのでは?といってくる。
 まだ、やっているのかなと思いながら、訪ねてきたものも事実である。
 彼は、大学時代に、アマチュア・バンドで、ドラムスをたたいており、趣味が講じて、レコード・ショップのオヤジになった。
 その後、レコードを買わず、貸しレコードでヒット曲を録音するようになった。そして、携帯電話の登場により、子供達は小遣いの多くを電話代に費やして、CDを買わなくなった。さらに、最近ではネット配信でヒット曲を買うようになっている。
 大学生の頃であろうか、一つのコンセプトで1枚のアルバムを作るようになった。ジャケット・デザインも重要な要素であった。
 ネットで、好きな曲をダウンロードするということの手軽さは、アルバムを作るという世界を放逐していくとしか思えない。若い頃には、ヒット曲としてしか知らなかった曲が入っているアルバムを今聴いてみると、若いときには感じ取ることができなかった世界が見えてくることがある。ヒット曲の向こうにある豊饒な世界が次の文化を創っていき、次の世代にその想いを伝えていく。ネット時代では、手軽さのみがもてはやされるので、次の世代には手軽さのエッセンスしか、伝えることができないのではないだろうか。
 このようなことを話していると、彼は、最近、学生時代の仲間に誘われて、時折、親父バンドをしている。でも、結局、みんな昔流行った曲をワンパターンに演奏することになるのが、物足りないと思っているという。
 やらないより、やるのはいいのだろうが、やる以上は、プログレッシブにしたいとの彼の思いはよく分かる。でも、この年になって、プログレッシブで有り続けるのは大変だろうなと想いながらも、俺もプログレッシブであらねばと心の内に、言い聞かせていた。
 カウンターの上にある、「川井郁子の『嵐が丘』のCDが置いてあったので、スティーヴィー・ワンダーの「タイム・ツー・ラブ」を買うことにした。
 川井郁子の演奏を聴いたのは、確か、表参道にあるロシア料理店であった。スティヴィー・ワンダーを聴いたのは、高校生の時である。テンプテーションの来日ができず、チケット代を返還してくれた上に、スティヴィー・ワンダーとマーヴェラスのコンサートを無料で聴いた。その彼も、今や、58-9歳でになっている。

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2005年12月 5日 (月)

『 片目のジャック』

○2005年12月5日

『 片目のジャック』 マーロン・ブランド監督

 マーロン・ブランドといえば、ゴッドファーザーのドン・コルレオーネとか地獄の黙示録のカーツ大佐のイメージが浮かぶように、独特の存在感がある俳優である。 マーロン・ブランドが監督・主演をした『片目のジャック』も、ブランドらしい片鱗が みえる怪作である。そういえば、「八月十五夜の茶屋」も怪作であった。 銀行強盗を働いたリオ(マーロン・ブランド)とダッド(カール・マルデン)は、追っ手に追いつめられる。馬を撃たれ、代わりの馬を連れてくる約束をして、山を下りたダッドは戻らず、リオは捕らえられる。 脱獄したリオは仲間と銀行強盗を働くため、モントレイの町を訪れる。その町の保安官こそ、金を持ち逃げしたダッドであった・・・と話は進む。 話の合間に、リオの女たらしぶりがカットバックされるのだが、透き通るような青い目のブランドの若き2枚目ぶりにはどきっとされる。しかし、手のひらを返すように、女をあしざまに扱うようすには、後年のブランドのあくの強い雰囲気の片鱗がみえる。 ダッドの住む家は、町のはずれの海岸のそばにある。白い砂浜が登場する西部劇も珍しい。モントレイとあるから、カリフォルニアの高級リゾートのペブルビーチのあるモントレイ半島かなのかと、「世界の映画ロケ地大事典」を開いてみたら、ペブルビーチのサイプレス・ポイントの北のビーチで撮影されたとあり、この映画のオリジナル脚本を書いたサム・ペキンパが降板し、監督もスンタリー・キューブリックからブランドに代わったとあった。この二人がどこまで、関与していたのか、この映画に二人の名残が残っているのかどうかと思うと、この怪作の所以がさらに興味深く思えてくる。 透き通るような青い目のブランドが女に言い寄るロマンチックな風情から、一転して、非常な男に変わっていく。観客をぐっと引き寄せるのだが、最後、ぐいっと突き放してしまう。ここが、ブランドのブランドたる所以なのかもしれない。

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