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2006年4月27日 (木)

『恵みのとき 病気になったら』

  ○2006年4月27日(水)
  『恵みのとき 病気になったら』晴佐久昌英・詩・文 森雅之・絵 サンマーク出版

「病気になったら どんどん泣こう」という一節から始まる。
 見開きの右に、詩の一節が書かれ、左にイラストというか漫画風の絵が描かれている詩画集である。
 入院体験は一度だけある。40日といわれたが、25日ばかりで退院した。体調がすぐれず、近所の医者にかかり、検査を受けた。結果が出たその日の夕方には、入院をする準備が万端整っていた。有無をいわさず、入院をさせられた。入院中の仕事の段取りをするために、翌日の午前中、外出の許可をもらい、仕事場に出掛けたが、それ以外は医者の指示に従い、安静にしていた。
 入院といわれた段階で覚悟を決めた。ひたすら読書に専念することにした。安静にしていろといわれたのだから、読める限り本を読むことにした。
 雑誌BOOKMANを主宰していた瀬戸川猛史が、この本を全部読んで、書評をしろと、20冊近いミステリ小説を病室に持ち込んできた。あのとき以来、あとのきのように、集中して本を読んだ記憶がない。だから、また、入院をして本を読めたらと夢想しているのだが、今度、入院をするときは、命にかかわるときなのだから、このような悠長なことはいえないだろうと思っている。
 では、この詩のように、素直に泣くことができるだろうか。
 この詩を書いたのは、カソリックの神父さんである。彼は、足に腫瘍があるといわれ、書き綴ったのがこの詩である。腫瘍と告知され、悪性の場合には、足の切断をすることになる。不安の気持ちで、入院した病院には、様々な患者が入院していた。明日の生も知れない重症な人もいるし、幼い子どももいる。自分だけではないのである。その時の思いが、詩となっている。
 神父さんというイメージ?とは異なる素直で、軽々とした筆致に、素直に反応したくなる詩である。

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2006年4月26日 (水)

『花崗岩の街』 

○2006年4月26日(水)
 『花崗岩の街』 スチュアート・マクブライト 早川PMB

 このところ、早川PMBから出る本が昔の映画化の原作やミステリばかりでで、魅力的な新しいミステリがなかったので、どうなったのかと思っていた。
 歴史のあるこのミステリ・シリーズの魅力は、新しいミステリを紹介するという使命にある。近時は、発行部数も少なく、値段も高くなっており、このシリーズの本を置いている書店も少ない。というわけで、このシリーズは、馴染みの書店で、取り置きしてもらっている。
 しかし、食指のわく本がこのところなく、編集者は何をしているのかと思っていたところである。そこに、ローラー・リン・ドラモンドの『あなたに不利な証拠として』に続いて、スチュアート・マクブライドの『花崗岩の街』と、このシリーズらしい、いぶし銀ともいえるミステリがでてきた。

 スコットランドのアバディーンが舞台の警察ミステリである。スコットランドといえば、贔屓にしているイアン・ランキンのリーバス警部シリーズの舞台はエジンバラである。
 アバディーンは、スコットランドの首都エジンバラ、綿工業や造船業で栄えた次グラスゴーに次ぐ第三の都市であり、人口21万人の街である。
 リーバス警部シリーズで、エジンバラは馴染みの都市となってきたが、聞いたことのあるような、ないような、馴染みの余りないアバディーンという都市を調べてみた。
 スコットランド北東部にある港町で、アメリカ、カナダやオーストラリアなどの国に沢山あるアバディーンという地名は、スコットランドのアバディーンから由来しているとのことであるから、その昔、この街から、人々が世界中に流れていったのであろう。

 主人公は、アバディーンのグランビア警察本部のローガン・マクマレイ部長刑事である。凶悪犯に襲われて重傷を負い、1年間休職していたローガンは、復帰早々、殺害された幼児の発見現場に行くことになる。冷たい雨が降り続ける街では、幼児が誘拐される事件が続発し、警察は批判の矢面に立たされる。おりしも、新聞には、警察関係者のもつ捜査情報の記事が載る。ローガンは、幼児の検死をする元恋人のイソベルとは気まずい思いをしながら捜査を続けるのだが、情報漏洩の疑いをかけられ、身の潔白を証明を迫られる。
 漏洩記事を書いている新聞記者ミラーは、ローガンに、港で膝を切断された発見された肢体の捜査情報の提供と引き換えに、幼児殺害の捜査情報の提供をしないかと持ちかけてくる。
 リーバス警部シリーズのような一匹オオカミで、ハードな主人公ではないが、連続して起きてくる事件を、きちっと解決するローガンというより作者のお手並みはなかなかのものである。容疑者とされる者に対する市民の仕打ちに対する複雑な状況の描き方などはうまいし、様々な感情のさや当てもあるし、サスペンスあふれる活劇シーンもありとの盛りだくさんな内容を一気に読むことができた。
 玉つぶしとあだ名される強面の府警ワトソン、絶えずグミを口にし、ローガンに厳しくあたる上司のインスク警部、ひとくせあるが透徹しているスティール女警部らと登場人物も多士済々であり、これからの展開に期待をもたらす新シリーズの登場である。

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2006年4月25日 (火)

『ルート66』

○2006年4月25日 
  『ルート66』 東理夫 丸善新書

 カントリーの演奏者であり、ミステリ作家でもある東理夫が書いている本であるから、ナット・キング・コールの歌で流行った「ルート66」の曲にまつわる蘊蓄の本だろうと軽い気持ちで読み始めたのだが、予想がはずれた。
 本の副題に「アメリカ・マザーロードの歴史と旅」とあるように、第1部は、ルート66の栄枯盛衰の歴史を、第2部は、ロスアンジェルスから、シカゴへのルート66の旅の話の2部構成となっている。

 ルート66の歌詞にでてくるように、この道は、シカゴから、ロスアンジェルスに通じる道路である。アメリカのハイウェイは、東海岸から西海岸への道が偶数、北のカナダ側の国境から南の海岸や国境に南北の道は奇数の番号がつけられている。
 ルート66は、シカゴから南下し、セントルイス、オクラホマ、テキサス、ニューメキシコ、アリゾナから、ロスアンジェルスに至る道である。
 この道を建設した人たちは、当初、「ルート60」と命名しようとしたが、東海岸から大陸横断する道路ではないとして、反対があったために、「ルート66」に落ち着いたらしい。
 この道が通過する都市名は、「ルート66」の歌詞にでてくるので、何となく馴染みがある。「セントルイス、ミズーリのジョプリン。オクラホマ・シティ。アマリロ、ニューメキシコのギャラップ。アリゾナのフラグスタック。ワイノナ。キングマン、バーストウ、サン・バーナーディノ」等々である。このルートの道が繁栄したのは、この沿線に周辺に、訓練基地や兵器の修理工場などの軍事施設が作られたことによる。
 このために、ルート66沿いの人口が増加し、交通渋滞が起きるようになり、新たにインターステート・ハイウェイが建設されたのだが、ハイウェイの建設により、ルート66沿いは繁栄から取り残されることになる。日本でも、新幹線の開通により、歴史のもつ町が取り残され、寂れていったのと同様である。
 「ルート66」という歌は、ナット・キング・コールのヒット曲であるが、1962年に、日本でも放映されたテレビ映画「ルート66」の同名の主題歌をジョージ・マハリスが歌い、ヒットした。私の世代からは、マハリスの歌の方が馴染み深い。
 テレビ映画「ルート66」は、ジョージ・マハリスとマーチン・ミルナーの2人の大学生トッドとバズが、コルベットコンバーチブルでルート66に沿って旅をし、様々な人と出会っていく物語であった。
 この本によれば、このテレビがアメリカで作られた1960年には、時代から取り残されていたルート66を旅する若者たちが、アメリカの抱える様々な問題に直面していくというシリアスなロードムービーであるという。今、思い返せば、確かにそうなのである。 しかし、豊かではなかった当時の日本の若者から見ると、同時期に放映されたハリウッドを舞台とする「サンセット77」ほど華やかな世界ではないが、大学生2人が、スポーツカーに乗って旅をしていること自体がまぶしい存在で、シリアスな時代背景をもったドラマであることの認識はなかった。
 歌やテレビ映画を通じて知った「ルート66」という道は、私たちの世代の者にとって、アメリカで最も馴染みのある道路であるといえる。

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2006年4月21日 (金)

『団塊ひとりぼっち』

○2006年4月21日(金)
  『団塊ひとりぼっち』  山口文憲 文春新書

「たしかに団塊は日本の外にでることができた。しかし、日本の戦後という大きな手の平の外へは、結局出られなかったのである。」p232

 1946年から1950年の5年間に、生まれた世代を団塊の世代という。狭義には、1948年から1950年の3年間に生まれた世代をいう。
 私は、1948年生まれであるから、まさに、団塊の世代の真っ只中に生まれ、育ってきた。
 小学5年まで、兵庫県の生野という山間地ではあるが、比較的経済的にも文化的にも恵まれていた企業城下町で育ったことで、私自身は経験したことはないが、都会の小学校では、プレハブの急造校舎で、生徒を、午前と午後にわけて、二部授業をしていた。
 私が横浜の振興住宅地の小学校に転校したのは、1958年頃である。この頃には、二部授業やプレハブ校舎もなくなっていたが、施設の貧弱さにはショックを受けた。それまで、私が過ごしていた生野の小学校には、体育館の他に、同程度の大きさの講堂があった。 実験機材がたくさん並び、自由に出入りができた理科室もあったし、和室の教室もあった。生徒全員のために、置き傘もあった。それも、油をひいた番傘が、並べてかけてある様は壮観であった。
 その小学校に入学する直前に、北海道から引っ越してきた。当然、入学したときには、、知っている子どもはいなかった。しかも、周りは関西弁の世界で言葉もよく分からなかった。
 1年生に入学した最初の日のことを覚えている。クラスの人数が、53人か、55人の奇数であった。2人掛けの机なので、一人の席がでてしまう。先生が、どうしようかと思案していたので、私が手を上げた。先生は、越してきたばかりであることを知っていたので、戸惑っていたが、結局、私が一人の席に着くことになった。
 横浜に転校したのは、5年生の3学期のことであった。転校をしていったその日、クラス委員の選挙があった。
 そして、私は、クラス委員長に選ばれてしまった。初めての教室で、このような事態に直面し、私は言葉がでなかった。ニヤニヤしている担任の教師の顔は、今になっても思い出す。
 それから、卒業するまでの1年余り、つらい日々が続いた。担任の教師との確執があり、同級生も助けようとはしてくれなかった。確執というと、きれいだが、まあ、教師からのいじめであった。親にも、学校での出来事は話さなかった。ただ、中学に進学する時に、助けてもくれない同級生と一緒の中学には行きたくないと、宣言した。
 このようなことから、鎌倉の公立中学に、越境入学することになった。
 今の時代では許されないのだろうが、教育委員会も黙認していた。地元の中学に行けといわれていたら、引きこもりの生活になったのではないかと思っている。小学校の6年頃に、早川のポケット・ミステリ・ブックにであった。エド・マクベインの「警官嫌い」を読んで、世界が広がった。学校での思いからも逃げることができた。

 山口の『団塊ひとりぼっち』には、さまざまな形の団塊の世代論が登場する。思わずうなずいてしまったり、いや違うだろうと異議を唱えたくなったり、ふと、思いが脇道にそれて、自分の生きてきた道を振り返ってしまう。
 山口は、団塊のひとりぼっちとして、第一に、世代の人口が突出していて、年齢集団としてひとりぼっちである。第二に、団塊の世代の上には、戦前派、戦中派、学童疎開・焼け跡世代があるが、下の世代には、実体的に輪郭のはっきりした世代はないとして、世代論の成り立つ最後の世代だとして、こ世代が最後となり、質的にひとりぼっちの世代となるとしている。そして、第三に、戦後の消費社会の第一期生で、理念としての個人主義者であり、そのなれの果てとしてのひとりぼっちであるとする。

 世代論は自分の記憶と直結する。
 『団塊ひとりぼっち』という言葉から、自分自身が同世代のなかでも、ひとりぼっちで過ごしてきたのかなという記憶ばかりが甦ってくる。
 しかし、この本から、ひとつの結論を求める必要はない。団塊の世代という類い稀な大人数の者たちが、きたるべき大量消費社会の到来を予感し、ひとくくりにしてほしくないという時代の気分があった。今でも、その気分をひきずっている。
 実態のよくみえない全共闘という反乱が日本全国を覆ったのも、この気分とは無関係ではない。しかし、その時代への予兆も、連合赤軍事件などの突出した事件が起きると、あっけなく消えてしまった。あのときに、あのような事件がなく、地道に社会を変えることができなかったことのつけが残ったまま、現在に至っていると思われてしかたがない。変えることができていれば、改革という言葉が、エキセントリックに踊る時代にはならなかったのではないだろうか。
 巻末に、団塊の世代の著名人のリストが載っている。カルチャーという側面では、興味深い人達が並んでいるが、政治家というと、鳩山威一郎、鈴木宗男程度であり、財界にもこれといった人材は見当たらない。
 そういう意味では、現在に至るまで、社会を支配していたのは、団塊の世代より上の世代であったし、これからはというと、団塊の世代を一足飛びに越えて、下の世代に流れていくのであろう。
 「戦争を知らない世代」といわれながらも、戦後の日本を知る最後の世代の宿命であるかもしれないが、数の多い世代が多様な生き方をしていくことによって、秘めてきたパワーを発揮するチャンスなのかもしれない。

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2006年4月15日 (土)

『名刺』

○2006年4月15(土)

 『名刺』


  最近、2人の方から名刺をもらう機会があった。
  2人とも、現役のサラリーマンであるが、名刺には会社の肩書は書かれていない。
1人肩書きは、SR会員、畸人卿会員。SRは、ミステリ愛好者の会であり、50年近い歴史をもつサークルである。畸人卿もミステリの会であるらしい。吉祥所のミステリ専門書店TRICK+TRAPで戸川さんから紹介されたのであるが、肩書きを見るだけで、彼の趣味・嗜好がみえてくるので、親近感がわいて、話がはずんだ。
  もう1人の名刺には、日本酒サービス研究会、酒匠の会とあり、利き酒師の資格ももっていること、更に、FM西東京というミニFM局のパーソナリティをしていることも記されている。
  名刺には、名前、自宅の住所、電話番号、メール・アドレスが印刷されている。仕事の匂いは一切ない。それに対して、私の名刺は、仕事の名刺なので、差し出しながら、気恥ずかしい思いをした。私の場合は、小さな個人の事務所なので、事務所で、プライベートなことを差し出しても差し障りがないのであるが、仕事の場では、プライベートな話をすることがあっても、私が書いているブログのことや、趣味としているミステリのことなどの話をすることは希である。
 たまさか、個人的にも、嗜好が合う人にあっても、職場の部署が変わり、連絡先である電話番号も変わったりすると、仕事のこと以外では連絡するために、異動した先の連絡先を確認することも億劫になり、疎遠になってしまうことが多い。プライベートなことで、連絡することには、多少遠慮が生じることもある。
 最近では、メール・アドレスが書かれているので、会社内で異動をしても、アドレスは変わらなくなったが、会社のアドレスに、個人的なメールを出すことには相手によっては差し障りがある場合もある。
 彼らの日常の生活が見えてくるので、名刺を交わすことによって、新たな会話がはずみ、いい時間を過ごすことができる。
 釣り好きの友人から、図鑑のように、沢山の種類の鮭と鱒の絵が描かれているポスターをもらったことがある。ある時、事務所の入り口に貼っていたポスターを見て、釣りが好きなのですかと聞かれ、しばし、話が弾んだことがあった。先ほどまで、相手方として、厳しい話し合いをしていた相手だったが、人が変わったようであった。
 仕事にプライベートなことを持ち込むのも好きではないが、パーソナルな名刺をもつことによって、仕事の肩書きでは見えてこない相手の人柄がみえてくることがある。
 自分の名刺を作ろうとは決めでも、肩書きに何をいれるのかは、難しい。自分をどう表現するのかの感性も問われてくるのだから・・・

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『戦後創世記ミステリ日記』

○2006年4月15日(金)
   『戦後創世記ミステリ日記』 紀田順一郎  松籟社 

 紀田順一郎さんの古希のお祝いと『戦後創世記ミステリ日記』の出版記念パーティが、日本出版会館で開かれた。
 読書人であり、書誌とミステリ関する評論、小説も書いている紀田さんは、この4月から、神奈川近代文学館の館長になった。
 出版社、古書店、作家、評論家など本を愛する人たちが150人近く集まったパーティで、まずは、発起人の荒俣宏さんや逢坂剛さんの挨拶があったのは、この種の会の恒例であるが、その後、紀田さんが30分ほどの短い講演をされた。
 題名は「三つの謎」。
 最初に、紀田さんが育った横浜市中区千代崎町の六つ辻の角にある老舗のお菓子屋さんの家の写真がプロジェクターで映し出された。
 周辺の地図をみると、整然と区画がなされいる町中に1本斜めに道が走っている。紀田さんは、子ども心に、何故、ここに斜めの道があるのか不思議でならなかったのだが、最近になってわかったという。
 横浜の山手、外人墓地周辺は坂が多いのだが、その近くにビヤ坂という坂がある。昔、坂の上に、キリン・ビールの工場があったことに由来する。関東大震災で全壊したために、現在の生麦に工場は移転した。大震災を機に、周辺に住む人たちも変わり、昔の記憶を語り継ぐ人もいなくなってしまったという。
 紀田さんが、不思議に思っていた斜めの道は、ビール工場への物資を運ぶ鉄道線路跡だったとのこと。キリンビールの社史から見つけたというレンガ造りのビール工場の建物の写真はきれいに彩色されているが、震災により、文字通り、瓦礫の山になっていた。
 2つ目は、小学校への通学途次、山手の外人住宅から、脱走してきた沢山の飼い犬に遭遇した際に、犬から身を守る方法として、両手を広げたところ、走ってきた犬が停まったという。この方法は、雑誌の少年倶楽部の付録に書かれていたのだという。
 そいて、この記事を書いた外国人の日本語表記から、長い間、その人が誰かを突き止めようとしていたところ、最近になって、ようやく判明したとして、その人が書いた本を見せてくれた。
 3つ目の謎については、と書こうと思ったが、その内容を忘れてしまった。
 最後の締めとして、紀田さんは、インターネットの影響からもしれないが、最近の傾向として、結論を早く求めすぎるのではないか。先のように、疑問を持ち続けて、60年近くかかって分ることもあるのだから、疑問を持ち続けるということが大事であるというなことを話された。
 紀田さんがホームページに書いている随想も、アップ・ツー・デイトな話題につながる古書を引っ張り出してくるのが面白くて、定期的に読んでいるのだが、紀田さんの講演も紀田ワールドに溢れていて楽しいひとときであった。

 紀田さんは、酷使舘というペンネームで、ミステリの評論・書評をしていた。慶応義塾大学推理小説同好会の同人誌の{論叢}とミステリ愛好者の会である「密室」(SRの会)の同人誌「SRマンスリー」に書いていた評論・書評をまとめたのが、今回出版された『戦後創世記ミステリ日記』である。
 会の出席者には、紀田さんのサイン入りの本が渡された。一般に販売されている書籍に、特別に装丁された箱がつけられている限定150部の特別版として、この会の出席者に配布された。この箱の出来がすこぶるいい。本の収まり具合が何ともいい感じで、官能的な手触りのできであった。
 本の内容については、これから読んでからということであるが、紀田さんが青春時代を共に過ごした故大伴昌司に捧げられている。大伴昌治は、かつて、少年マガジンなどで、怪獣のグラビアなどを作っていた。別名「怪獣博士」として、この世界では今でも名前が語り継がれている多彩な人であったが、1973年に早世した。
 会場で話をしたある出版社の編集者が、大伴昌司とその父親をテーマにした本をつくりたいと熱心に語っていた。大伴さんも生きていれば、古希となる。従って、関係者もそれなりに高齢となっている。まして、お父さんとなると、直接、知る人は本当に少なくっている。残された時間は少ないと、編集者に話した。シナリオ作家協会の主催する新人シナリオ作家に与える大伴昌司賞は今でも続いているらしい。 

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2006年4月14日 (金)

『銀座ギャラリー日記』 

○2006年4月13日(木) 
  『銀座ギャラリー日記』 栗田玲子 ガレリア・グラフィカ

 ガレリア・グラフィカの栗田さんから、『銀座ギャラリー日記』が届いた。
 昨年、朝日新聞の夕刊に連載をしていたコラムを小冊子にしたものである。本の見開きの左側の栗田さんの文章に登場する作家たちの絵やカタログなどの写真が右側に配置されている。
 私が画廊に気安く出入りするようになったのは、栗田さんと知り合いになったことからである。30年近く前のことである。当時は、有楽町のガード下近くの小さなビルの地下に、栗田さんの画廊があった。それから、銀座の中央通りに移り、今は、松坂屋の裏手の方の昭和通りに近いところにある。
 1階のbisは貸画廊として、若手の作家の発表の場になっている。その2階が、栗田さんのいる画廊ガレリア・グラフィカである。30代の頃には、学生時代の友人と、銀座のライオンでビール付きランチを食べた後、散歩がてらに画廊に寄り、お茶を飲みながら絵を見せてもらっていた。
 この小冊子に登場する作家の人たちの中にも、画廊で直接、話をした人が何人かいる。
 
 今朝、久しぶりに早く起き、2階の自分の部屋で、お茶を飲みながら、この小冊子を読んでいた。ページごとに登場する作家の顔や息遣いを感じる思いで読んでいた。
 栗田さんから、結婚祝いにギリシアのファシアノスの絵をもらった。その後、私も数点手に入れた。地中海らしい鮮やかな色遣いは現代的でもあるし、日本の田舎を思いださせるような素朴な世界が共存し、古代ギリシアを思わせる奔放な世界が繰り広げられている。 ファシアノスの絵は、アテネ五輪の記念切手に使われたが、その年、ファシアノスは日本にきた。画廊で、栗田さんに紹介され、握手をした。ギリシアにいかにもいそうな素朴な雰囲気の気さくなおじさんであった。
 
 数年前、亡くなった坂倉新平さんとは、個展のために、パリから帰っていた時に初めて会った。その後、日本に帰り、辻堂の方に居を構えた。色遣いが微妙に変わった。空気か風土の影響かは分からないが、作家が生きている時代と場所の息吹を受けていることを実感した。同時代に生きている作家を観る楽しさである。
 坂倉さんが亡くなる数年まえに、家族と一緒に、アトリエに遊びに行ったことがある。病状も進行していたが、多弁だった。描いている途中のキャンバスを何枚も見せてくれた。パリ時代のデッサンもたくさんあった。絵を描きたくてしようがないという思いが伝わってきた。
 
 栗田さんは、画廊主も、作家たちとともに歩いているという。私も、客といえるかは分からないが、長年、画廊に通うことにより、作家たちの軌跡に直接触れることができた。
 時間をかけることで、こちらの内側に醸成されていくものが豊饒となってくる。
 年を経ることによって、分かってくることも多い.

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2006年4月 9日 (日)

『進めジャガーズ・敵前上陸』

○2006年4月7日(金)

『進めジャガーズ・敵前上陸』 前田陽一監督

 同時代的に、グループ・サウンズを夢中になって聴いていたことはない。それでも、スパイダースやタイガース、ワイルドワンズのサウンドの響きは、記憶の底にあり、ラジオから流れてくると、懐かしい思いが沸いてくる。
 ジャガーズの主演する映画『敵前上陸』のDVDを観たのは、脚本・中原弓彦とあったからである。
 金曜の夜、眠気にうとうとしながら観ていたので、この映画の全貌を見たと確信できないのだが、一言でいうと、DVDの裏の解説にある超カルト的怪作というキャッチが的確な表現といわざるを得ない。超カルトも怪作も、とりようによって、さまざまな意味合いにとることもできるのであるから、なんら批評になっていないのだが、それだけ、なんとも評しようがない映画であった。
 冒頭、五重の塔を模したようなホテルの2階か3階のベランダで、ジャガーズが演奏をしている。階下の芝生では、若者たちが踊っている。階上のベランダでは、若き中村晃子が踊っている。
 五重の塔のようなホテルに既視感があるのだが、どこにあるホテルなのか、思い出せないでいたが、ドリームランド・ホテルという文字がでてきた。大船にあったドリームランドのホテルである。この映画が作られたのは1968年である。
 ドリームランドが取り壊され、マンションか何かが建ったというニュースを聞いたのは何時のことであっただろうかという思いにかられていると、悪漢役で、てんぷくトリオの三波伸介が登場してくる。トリオの一人であった伊東四朗は、ジャガーズのバンドボーイ役なのだが、若き日の伊東が妙につるつるのっぺりとしているのが印象的である。
 ここらへんから、少し眠ってしまったので、話が飛んでしまうのだが、映画の方も脈絡なく筋がとんでいるので、居眠りをして見逃した場面がどの程度なのかはよく分らないのだが、突然、ジャガーズや悪漢たちが、硫黄島に上陸している。
 日本の敗戦を知らない日本兵が登場してくる。日本兵に、敗戦後の日本の状況を話すのだが、戦後の出来事のモノクロの写真がカットバックされ、皇太子(現在の天皇)と美智子妃のご成婚の写真まででてくるのだから、驚きである。
 ヒッチコック・マガジンの編集長をしていた中原弓彦は、作家の小林信彦のことであるが、小林の『60年代日記』の1967年12月6日に、「HELP!」のようなものをと頼まれて書いたシノプシスを、前田陽一、面白いという、とある。翌年の3月14日に、「進め! ジャガーズ 敵前上陸」というひどい題名になった、としている。その間、「虹色の湖」がヒットした中村晃子を使えと、松竹が前田にいってきたとの記載があるのみで、格別、脚本を書いたような気配はない。シノプシスがどの程度のものかは、分らないが、脚本は前田陽一が書いているように思われる。ただ、この程度の映画で、詳細なシナリオを書くことはなく、シノプシスに沿って映画を作っていったということも考えられるので、断定はできない。
 そういえば、雑誌PENの4月15日号は、「心を揺さぶるグラフィックの宝庫 雑誌のデザイン」の特集であるが、中原弓彦の編集になるヒッチコック・マガジンの全50巻セットが52,500円という古書情報が掲載されている。
 この号には、1962年に刊行され、たった4号で幕を閉じた「EROS」という雑誌を紹介する見開きの頁がある。黒人男性と白人女性が肌を寄せ合うヌード写真の美しさは、今、見てもはっとさせられる。

 

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2006年4月 8日 (土)

「娘に語るお父さんの歴史」

○2006年4月8日(土)

「娘に語るお父さんの歴史」  重松清  ちくまプリマー新書

1963年生まれの父親が、中学3年生と小学3年生の娘たちに、お父さんの生きていた時代の歴史を語るという、タイトル通りの読み物である。
 父親の名前は、昭和を引っ繰り返した和昭という名前になっているが、著者の重松清と同じ年齢の設定である。
おじいさんの話であれば、当然に戦争の話になり、生きてきた時代は必然的に歴史の話となってくる。
 1963年生まれの父親が思い出話をすることはできても、その生きてきた時代が歴史という視点で眺めていくとどうなのだろうか、というのが、この本のモチーフである。
 お父さんは図書館に通い、自分の生きてきた時代を通観し、娘たちに伝えようとする。
 1948年生まれ、いわゆる団塊の世代である私からすれば、1963年には15歳となっており、中学3年生である。
 ただ、私の子どもは、高校2年の娘と中学2年の息子なので、何かを伝えておきたいという思いは共通している。
 私がこのブログを書き続けようとしているのも、これから先が見えてきた自分が、今、何を考えながら生きているのかを、子どもたちに伝えておきたいという気持ちもかなりある。
 重松のような有名作家が本に書くのと、誰も読んでいないようなブログを書き続ける作業では大きく違うのだが、自分ならどういうのだろうかと思いながら読んでいた。
 内容的には、自分でも書けそうだというお手軽な本であるが、単なる昔話ではなく、歴史という視点をきちっと、押さえていくことが大事であるということを気づかせてくれたという意味で、参考になった。

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2006年4月 4日 (火)

『ワールドカップが夢だった。』[サッカーを見よう]

○2006年4月4日(火)
 『ワールドカップが夢だった。』杉山茂樹著、赤木真二写真 ダイヤモンド社

 サッカーをした経験はほとんどない。兵庫県の山の中にあった生野という町で小学生時代を過ごしたのだが、サッカーをしたという記憶は、珍しく大雪となり、野球ができない校庭で、サッカーをしたという程度である。
 家の近くの神社のある広場で、毎日のように、野球やソフトボールをしていた。学校の昼休みには体育館で、軟式のテニスボールを使って、素手でボールを打つゲームに興じていた。
 夏休み明けには、学校で地域対抗の野球の試合があった。4年生でレギュラーになるために、夏休みは練習に明け暮れた。ライトで、9番に選ばれたときはうれしかった。当時は、ライトで9番というのが、一番下手な選手の定位置であった。
 秋になると、夏の予選で活躍した県内の高校のチームを数校招待した大会が、町の郊外にある野球場で開かれた。草の上にすわって観戦したときの楽しさは今でも昨日のように思い出す。
 中2になった息子のサッカーの練習試合を時折、観にいくことがある。サッカーと野球とは文化が違うとつくづく思う。攻守が交代し、監督が細かく指示をする野球と、攻が一転して守となり、始まってしまうと監督の指示などないにひとしく、選手の一人、一人の動き、感覚がフィールドを支配してしまう。
 そのサッカーも、監督が変わると、チームの動きも変わり、生彩を変える。サッカーは生き物なのだとつくづく思う。
 
 杉山茂樹の『ワールドカップが夢だった。』は、サッカーのもつ魅力、魔力を語っている。日本から観ているサッカーとワールドワイドに観るサッカーの違いを、記者席というより、観客席という身近な視点から、語りかけてくる。
 日韓ワールドカップで、活躍した韓国の原動力、ドーハの悲劇として語られる対イラン戦の語られていないことなどなど、一段とワールドカップを身近に感じさせてくれる。
 
 この本には、6月に開催されるドイツ大会に行くと、7度目のワールドカップの取材となる赤木真二さんの写真がふんだんに使われている。
 試合の場面や選手や監督の写真もいいのだが、観客たちの写真がサッカーの別の魅力を伝えてくれる。最後の方に、車椅子に座る男性にまたがった恋人らしい女性が一緒になって、傘をさしながら、スタジアムでサッカーのを観戦している小さな写真がページの真ん中に1枚だけ載っている。
 その写真の下にあるキャプションに、
「サッカーが戦争だなんていうやつは、本当の戦争を知らないんだ。」(ズボミール・ボバン)とある。
 ぴりっと、小味の効いた配置である。編集者の息遣いも聞こえてくるようである。
 その赤木真二さんが、母校の自由学園の近くにあるギャラリー「play it again」で、写真展[サッカー見よう]を開催する。
 一段と、ワールドカップが身近になってくる。

  日時 2006年4月    15,16日
                21,22,23日
                              28,29,30日

  ギャラリー 「play it again
    (東久留米市学園町1丁目 0424ー24ー0135)

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