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2006年4月15日 (土)

『戦後創世記ミステリ日記』

○2006年4月15日(金)
   『戦後創世記ミステリ日記』 紀田順一郎  松籟社 

 紀田順一郎さんの古希のお祝いと『戦後創世記ミステリ日記』の出版記念パーティが、日本出版会館で開かれた。
 読書人であり、書誌とミステリ関する評論、小説も書いている紀田さんは、この4月から、神奈川近代文学館の館長になった。
 出版社、古書店、作家、評論家など本を愛する人たちが150人近く集まったパーティで、まずは、発起人の荒俣宏さんや逢坂剛さんの挨拶があったのは、この種の会の恒例であるが、その後、紀田さんが30分ほどの短い講演をされた。
 題名は「三つの謎」。
 最初に、紀田さんが育った横浜市中区千代崎町の六つ辻の角にある老舗のお菓子屋さんの家の写真がプロジェクターで映し出された。
 周辺の地図をみると、整然と区画がなされいる町中に1本斜めに道が走っている。紀田さんは、子ども心に、何故、ここに斜めの道があるのか不思議でならなかったのだが、最近になってわかったという。
 横浜の山手、外人墓地周辺は坂が多いのだが、その近くにビヤ坂という坂がある。昔、坂の上に、キリン・ビールの工場があったことに由来する。関東大震災で全壊したために、現在の生麦に工場は移転した。大震災を機に、周辺に住む人たちも変わり、昔の記憶を語り継ぐ人もいなくなってしまったという。
 紀田さんが、不思議に思っていた斜めの道は、ビール工場への物資を運ぶ鉄道線路跡だったとのこと。キリンビールの社史から見つけたというレンガ造りのビール工場の建物の写真はきれいに彩色されているが、震災により、文字通り、瓦礫の山になっていた。
 2つ目は、小学校への通学途次、山手の外人住宅から、脱走してきた沢山の飼い犬に遭遇した際に、犬から身を守る方法として、両手を広げたところ、走ってきた犬が停まったという。この方法は、雑誌の少年倶楽部の付録に書かれていたのだという。
 そいて、この記事を書いた外国人の日本語表記から、長い間、その人が誰かを突き止めようとしていたところ、最近になって、ようやく判明したとして、その人が書いた本を見せてくれた。
 3つ目の謎については、と書こうと思ったが、その内容を忘れてしまった。
 最後の締めとして、紀田さんは、インターネットの影響からもしれないが、最近の傾向として、結論を早く求めすぎるのではないか。先のように、疑問を持ち続けて、60年近くかかって分ることもあるのだから、疑問を持ち続けるということが大事であるというなことを話された。
 紀田さんがホームページに書いている随想も、アップ・ツー・デイトな話題につながる古書を引っ張り出してくるのが面白くて、定期的に読んでいるのだが、紀田さんの講演も紀田ワールドに溢れていて楽しいひとときであった。

 紀田さんは、酷使舘というペンネームで、ミステリの評論・書評をしていた。慶応義塾大学推理小説同好会の同人誌の{論叢}とミステリ愛好者の会である「密室」(SRの会)の同人誌「SRマンスリー」に書いていた評論・書評をまとめたのが、今回出版された『戦後創世記ミステリ日記』である。
 会の出席者には、紀田さんのサイン入りの本が渡された。一般に販売されている書籍に、特別に装丁された箱がつけられている限定150部の特別版として、この会の出席者に配布された。この箱の出来がすこぶるいい。本の収まり具合が何ともいい感じで、官能的な手触りのできであった。
 本の内容については、これから読んでからということであるが、紀田さんが青春時代を共に過ごした故大伴昌司に捧げられている。大伴昌治は、かつて、少年マガジンなどで、怪獣のグラビアなどを作っていた。別名「怪獣博士」として、この世界では今でも名前が語り継がれている多彩な人であったが、1973年に早世した。
 会場で話をしたある出版社の編集者が、大伴昌司とその父親をテーマにした本をつくりたいと熱心に語っていた。大伴さんも生きていれば、古希となる。従って、関係者もそれなりに高齢となっている。まして、お父さんとなると、直接、知る人は本当に少なくっている。残された時間は少ないと、編集者に話した。シナリオ作家協会の主催する新人シナリオ作家に与える大伴昌司賞は今でも続いているらしい。 

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