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2006年6月21日 (水)

 『カッティング・ブルース』 

  ○2006年6月21日(水)
   『カッティング・ブルース』 マイケル・Z・リュ-イン 理論社

 私のお気に入り作家の一人、マイケル・Z・リュ-インの新作である。
 第1章では、ジャッキー・クロスの親友ナンス・クーパーが殺され、ジャッキ-が英国に渡った犯人を追いかけ、船に乗る。1895年7月のことである。
 第2章は、ジャッキ-の祖母クローデットがみなし子となり、競売にかけられる。1826年のことである。
 奇数章では、男に扮してプロ野球選手となっているジャッキ-の冒険箪が描かれていくのに対し、偶数章では、孤児として競売にかけられ、競落した男とともに人里離れた山奥に住むことになったクローデットが、インディアナ・ポリス、ニューヨークにたどりつくまでの苦難の生き様が書かれている。息子のマシュー・クロスは、誕生したばかりのプロ野球の選手となり、その子どもがジャッキーということになり、ジャッキーの生涯とクローデットの生涯が重なり合っていく。
 重い雰囲気の復讐譚ではない。殺人を犯してしまったクローデットは男に扮して逃げるのに対し、野球をするために男に扮しているジャッキーが船上で追っ手から逃げるために女になるなどの対照の妙も面白いし、アメリカにプロ野球が誕生する時の様子が描かれたり、バッファロー・ビルやアニー・オークレーが活躍する西部劇ショー(ワイルド・ウェスト・ショー)が登場したりと、この時代が興味深く描かれている。

 孤児が労働力として競売にかけられるということも、今の感覚ではとんでもないということかもしれないが、孤児の命を助ける一つの方策であったのかもしれなかったのかなとも思った。
 イギリスでも盛んに野球が行われている様子には、本当かなと半信半疑で読んでいたが、著者の後書きによれば、イギリスで野球が盛んに行われていたことがあるとのことであり、1930年代にはプロ野球に入って登板した女性選手もいるという。
 19世紀後半のアメリカやイギリスに関心のある者にとっては、面白い1冊である。
 
 「探偵家族」以降、軽めの傾向の本が続き、もう、ーロイ・パウダーやアルバート・サムスン物を読むことはできないのかと思い、マイケル・Z・リューインのHP( http://www.michaelzlewin.com/   )を除いたら、アルバート・サムスンの新作の表紙がでかでかと出ていた。翻訳がでるのが待ち遠しいところ。

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2006年6月18日 (日)

『疑惑のアングル』

○2006年6月18日(日)
  『疑惑のアングル』  新藤健一 平凡社

 著者の新藤健一は、共同通信のカメラマン、編集次長を経て、現在、フォトジャーナリストとして活躍している人である。
 この本の副題に「写真の嘘と真実、そして戦争」とある。
 報道写真を題材に、著者主張をしつづけようとしているものは、何であろうか。

 表紙のカバーに、遠くに新宿の高層ビル、その手前に青山墓地の木々の緑が豊に繁っている。その手前に、舗装され、ヘリポートのマークHが大きく書かれた広い空間がある。右側部分の地下を道路が貫通している。この写真を眺めながら、しばし、この場所は、どこだろうか、考えてしまった。六本木トンネルの上らしい。車ではよく利用する六本木トンネルであるが、都心のこのような場所に米軍のヘリポート基地があるとは想像もつかなかった。この基地に接して星条旗新聞社があるためであろうが、赤坂プレスセンターと呼ばれているらしい。

 北朝鮮から提供された横田めぐみさんのコートを着て立っている写真の合成疑惑、9.11テロ事件のペンタゴンの画像や貿易サンタービルの画像から生じる疑問、フセイン元大統領を拘束したときの写真が流された意図等々、一枚の報道写真を分析していくことによって、報道されていた事実がゆらいでいく。
 報道写真を撮る現場の取材者、視聴者の関心を惹きつけたいデスクの思惑が交錯することにより生じるメディアの落とし穴が1枚の写真からあぶりだされていく過程は、スリリングであるとともに、1枚の写真を観る者として、写真とどう対峙していくことの怖さが迫ってくる。
 中でも、衝撃的なのは、1971年沖縄返還協定批准に反対するデモの一団に襲われ、火炎瓶を浴びて巡査が死亡した事件である。読売新聞に現場の写真が掲載された。「過激派に取り囲まれた巡査部長は、めった打ちにされ、火炎瓶で火だるまになった」と説明がついている。
 読売新聞に掲載された写真が証拠となり、M氏が逮捕・起訴された。起訴状には、「M被告は炎の中に包まれている巡査部長の肩をつかまえてひきずり出し、顔を二度踏みつけ脇腹を一度蹴った」と記載されていた。
 メディアに掲載された写真が刑事裁判の証拠として使われると自由な取材ができなくなる。報道の自由・表現の自由の観点から、新聞記事をこのように使うことの是非が問題となった。
 しかし、この写真のもつ恐ろしさは違うところにあった。弁護側が、その後、同一の瞬間を撮影した16ミリフィルムを入手し、解析したところ、巡査部長を足蹴にしたとして起訴されたM被告の行為は、足で、巡査部長の服の炎を消そうとした行為であったことが判明した。無罪となるまでに、3年という期間を要していた。
 1枚の写真が編集やキャプション次第で、殺人行為とされたり、救出行為とされたりしてしまう。そして、16ミリフィルムが存在しなければ、おそらく、M被告は殺人罪で有罪なってしまっただろう。16ミリフィルムがどのような経過をたどって、弁護団が入手したのかは分らないが、相当時間を要した可能性もある。無罪となるまでの時間の長さもさることながら、この時間の長さがあることによって、16ミリフィルムが入手できたというのであれば、裁判に多少時間がかかるということも必要ともいえる。迅速な裁判がもたらすものの功罪がこのようなことにある。

 この本により考えさせられることは数多いが、著者がもっとも力点をおいているのは、米軍が使用する普天間飛行場の移設の問題である。
 日本政府は、米軍が基地を返還するので、その移転先を辺野古崎にすると説明し、この移転のために多額の資金を投下しようとしている。
 米軍の使用している普天間飛行場の滑走路は、現在は、老朽化のために波打っており、基地として継続使用するには大規模な改修工事を必要としている。辺野古崎に飛行場を作る計画は、1966年の頃からあり、マスタープランも作成されていた。
 著者は、辺野古崎への基地移転は、「実は米軍基地を統合・強化・近代化する再編計画」の一環であると主張する。(p322)
 40年という長期にわたる計画が日の目をみる、しかも、日本が多額の資金を負担してくれるというのであれば、米軍にとって、これほど、おいしい話はないのである。

 

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2006年6月14日 (水)

 『サッカーが世界を解明する』

○2006年6月14日(水)
  『サッカーが世界を解明する』フランクリン・フォア 白水社

 ワールド・カップの熱気も、12日、日本がオーストラリアとの試合に負けたことにより、一挙に冷めてきたようだ。
 オーストラリアのがっちりした体格の選手は無骨ながら日本を圧倒する強さがみなぎっていた。それに対し、ブルーのユニフォームの選手たちは、ひ弱さが目立った。
 『サッカーが世界を解明する』は、欧米のサッカーが成り立ってきた世界を描いている。10章から構成されているが、ベオグラード、グラスゴー、ウィーン、ロンドン、リオ・デ・ジャネイロ、リポフ、ミラノ、バルセロナ、テヘラン、ワシントンの10の都市を舞台に、現在、華やかに報道されているサッカーの世界とは別の一面をかいま見せてくれる。

 「ヨーロッパや南米、アフリカでも暴力はサッカー文化の一部となっている。古くから暴力とサッカーが切り離せない関係になっている地域でも、八〇年代、九〇年代にはさらに広く蔓延し、過激さもましている。セルビアのサポーターたちはただ、他国に比べて組織がしっかりしていて、武装も徹底されているというだけのことだ。」(p20)
 
 第1章の「ギャング・スターたちのパラダイス」では、富を得たギャングのアルカンが、国際的な名声を得るために、ベオグラードのチーム「オリビッチ」を手に入れる話である。 第2章は、グラスゴーの話である。中村俊輔がプレーをしているセルティックは、グラスゴーを本拠にしているプロサッカーチームだが、グラスゴーにはもうひとつレンジャーズというチームがある。
 プロテスタント系のレンジャーズのサポーターは、「俺たちはフィニアン同盟、血の契り取り交わす」と歌い、応援する。フィニアン同盟とはアイルランドの独立を主張し、1867年に、ロンドンの刑務所を襲い、アイルランド人の囚人を奪還しようとしたことで知られている。
 これに対し、カトリック系のセルティックは、「手にはライフル、あるいはピストル」と歌う。
 ダービーマッチといわれるレンジャーズとセルティックの戦いは、隣同士の戦いといっても、宗教改革がもたらしたプロテスタントとカトリックの争いが未だに続いている。
 日本でダービーマッチと喧伝される浦和と大宮の戦いなどからは想像もつかない、川中島の戦いとされるアルビレックスとヴァンフォーレの試合に、武田信玄と上杉謙信の血で血を争う戦いの世界をもっと身近に再現してみればどうかなと思いながらも、原爆投下、東京大空襲、そして、現在に至るまで、米軍に占領されていても、アメリカとは戦争をしたことも知らないこどもたちが育っている日本が、世界の雑草のような文化を背景にしている世界のサッカーに勝てるわけがないと思った。
 この本は、サッカー・ファンならずとも、世界各地の文化に興味ある人にはお奨めの本である。
 グラスゴーの章は、グラスゴーを舞台にするするミステリやアイルランド紛争の背景への興味など、サッカーの世界からミステリの世界への橋としても面白かった。

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2006年6月11日 (日)

『ナイロビの蜂』

○2006年6月11日(日)
   『ナイロビの蜂』 監督フェルナンド・メイレレス

 昨日の夜、遅くなったので、小田原のビジネス・ホテルに泊った。昨夜、つけっぱなしのままのテレビでは、アルゼンチンとコートジボワールのサッカーの試合の中継をしていた。2対0の後半戦、コートジボワールの選手がアルゼンチンのゴールを盛んに攻めているが、なかなか得点ができない。1点を返したのみで、負けてしまったが、コートジボワールの選手のしなやかな動きを見ていると、日本代表はどこまでできるのだろうかと思ってしまう。
 新幹線に乗り、東京駅についたのは午前9時ころであった。そのまま、まっすぐ家に帰るのももったいないので、映画でも観ようと有楽町にでかけ、丸の内プラゼールで『ナイロビの蜂』を観ることにした。10時5分から予告編が始まり、10時25分から本編が始まることになっているので、まず、トイレに行ってから、劇場内に入った。松竹系の劇場なので、松竹系の映画の予告編が流れているのだが、予告編を観ている内に気分が悪くなってしまった。「サイレント・ヒル」だの「デス・ノート」など、やたら、ホラー系の映画の予告編が多いこともあったが、大音響のサウンドで、予告編特有のクライマックス・シーンが次々と登場してくるのである。
 朝、早い回の上映だが、観客はそこそこ入っているが、時間帯や内容的に地味な映画のせいか、観客の年齢層は比較的高いようであったが、どんな思いで予告編を観ているのか気になった。
 予告編の上映をすること自体、ダメだと思わないが、観客は、本編の映画を観に来ているのであって、予告編を観にきているのではないのである。本編の映画を観るためのコンセントレーションを高めていき、本編への期待感をもたせるという段階を経て、本編が始まる。昔で言えば、開幕のベルが鳴り、照明が暗くなり、映画会社のマークが流れてくるだけで、わくわくした。
 家で、DVDを観るのではなく、映画館で映画を観るべきと主張する人の言い分はよく、理解できるのだが、映画館自体が、ただ、数多く予告編を流せばいいという無神経なことをしていることに腹がたってしかたがなかった。
 本編が始まっても、しばらくの間、予告編の残響音が耳というか頭の中に響きわたっていた。本編が、淡々と静謐に描かれる映像で、鋭く、社会を告発するいい映画であっただけに、映画館の無神経さに腹がたった。映画を愛する者がいれば、本編との調和性を損なうのではないだろうかと感じるのではないだろうか。

 『ナイロビの蜂』は、ジョン・ル・カレの原作(集英社文庫刊)の世界を忠実に描いている。
  ケニアに赴任した英国外務省の一等書記官ジャスティンについてきた妻のテッサは、黒人たちの住むスラムに出かけ、スラムで働く黒人医師アーノルドとともに救援活動をするようになる。多くの黒人たちがエイズ、結核に罹患している。テッサたちは、製薬会社のスリー・ビーが新薬の治験をしており、治験者達の何人かが、治験のために、死亡していることに気づく。ジャスティンは、ガーデニングを趣味とし、赴任地でも植物の世話に明け暮れ、テッサの行動に関心を示そうともしないが、干渉もせず、二人の仲は平穏であった。
 救援活動に向かったテッサが殺され、同行したアーノルドが行方不明となる。テッサの死に、不審なものを感じたジャスティンは、テッサの死の真相を探っていき、製薬会社の新薬をめぐる陰謀があり、英国政府の高官もからんでいることに気づく。

 派手なアクション・シーンもなく、声高に、社会を、国家を糾弾することもなく、淡々と話は進んでいく。黒人たちの住むスラム、蔓延するエイズと結核、黒人の子ども達の笑顔、白人の手先となって同胞を襲うおとこたち、そこには、饒舌な説明もないが、想像力のある受け手には様々な思いをかき立ててくる。
「地の果てで、やっと君に帰る。」というこの映画のコピーが色あせてみえる。この映画には、愛を装っているが、そこには救いのない邪悪な社会への絶望の思いが秘められている。
 日曜日の昼下がり、映画館を出ると、雨が降っている。映画の余韻がじわじわと沸いてくるのだが、あの予告編の無神経さに余計腹がたってきた。
  

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2006年6月 1日 (木)

『新世紀書店』

○2006年6月1日(木)
『新世紀書店』北尾トロ、高野麻結子(ポット出版)

 目白にある大学で、90分ほど話をした帰り、目白の駅についた時には、午後6時を回っていた。事務所に戻らず、久しぶりに、池袋にあるジュンク堂書店に行こうと考えた。
 ジュンク堂は量の多い品揃えが売りの書店なので、買いたい本を決めて出かけるには便利であるが、ぶらぶらと見て歩くには、相当、気力と体力がいる。従って、体調のいい時に、ぶらっと行ってみようという気になる。
 ワールドカップにちなんだスポーツ系本が並んでいる平台を眺め、4階にある喫茶のコーナーの方にある棚を覗こうと歩いていったら、トークショーの受付をしていた。
  『新世紀書店』とあるので、何かなと思って覗いたら、『新世紀書店』の出版記念のトークだという。まだ、席があるとのことだったので、何となく聞いてみようと気になった。
 話をしたのは、この本の編著者である北尾トロ氏と西荻窪で古本屋ハートランドを経営している斎木博司氏である。
 2人は、本の街を作りたいという思い、それには、まず、ヨーロッパの本の街を見てこようと、イギリスのヘイ・オン・ワイとベルギーのルデューに出かけたときの話である。 ウェールズとイングランドの国境にあるヘイ川のウェールズ側の街、ヘイに行くにははロンドンから列車で3時間、バスで1時間、計4時間近くかかる。人口2000人のその街には、30軒ばかりの古本屋がある。50年以上前に、リチャード・ブースという人が古家を改造して古書店を開いたのを最初にして、その後、次々と古書店ができ、本の街として有名になり、観光客が沢山くるようになったという。プロジェクターで投影された街の写真には、緑豊かな山並みの中に、城を中心としたきれいな町並みが写っている。
 北尾氏の話では、古書マニアが目の色を変えるような本は少ないが、ホテルやB&Bに泊って、古本屋巡りをして本を楽しむ雰囲気があるという。近くには、ハイキング・コースもあり、午前中ハイキングをして、午後に本を買ってゆっくりと読むという過ごし方もあるという。
 これに対し、ルデュの方は、最初から、町おこしを狙って作られた街で、ヘイと比較すると、テーマパークのような雰囲気のこぎれいな街で、本屋のデザインも凝っているが、北尾氏たちは、ヘイの街の人間臭さがえらく気に入ったようである。
 
 三重県に名張という街がある。江戸川乱歩の生誕地ということで、図書館には乱歩コーナーもあり、乱歩の文献目録を刊行したり、ミステリ作家の講演会を開いたりしている。 先日も、ミステリの古書市ができればいいなと知人と話をしたりしていたが、名張なら、このような仕掛けができるかもしれないと、話を聞きながら夢想していた。
 
 小山正氏が、ヘイ・オン・ワイの話をしていたことを思いだし、奥さんの若竹七海さんが書いた『英国ミステリ道中ひざくりげ』(光文社)を引っ張り出してきた。小山氏も執事と称して、「執事の英国書店漫遊記」書いている。そこに、ヘイ・オン・ワイのことがある。ミステリと映画のマニアである小山氏のみたヘイ・オン・ワイは、北尾氏の話していたイメージとは若干異なり、古書マニアとして目の色を変えた本が並んでいたようで、各古書店の紹介が詳しく載っている。

 

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