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2006年6月11日 (日)

『ナイロビの蜂』

○2006年6月11日(日)
   『ナイロビの蜂』 監督フェルナンド・メイレレス

 昨日の夜、遅くなったので、小田原のビジネス・ホテルに泊った。昨夜、つけっぱなしのままのテレビでは、アルゼンチンとコートジボワールのサッカーの試合の中継をしていた。2対0の後半戦、コートジボワールの選手がアルゼンチンのゴールを盛んに攻めているが、なかなか得点ができない。1点を返したのみで、負けてしまったが、コートジボワールの選手のしなやかな動きを見ていると、日本代表はどこまでできるのだろうかと思ってしまう。
 新幹線に乗り、東京駅についたのは午前9時ころであった。そのまま、まっすぐ家に帰るのももったいないので、映画でも観ようと有楽町にでかけ、丸の内プラゼールで『ナイロビの蜂』を観ることにした。10時5分から予告編が始まり、10時25分から本編が始まることになっているので、まず、トイレに行ってから、劇場内に入った。松竹系の劇場なので、松竹系の映画の予告編が流れているのだが、予告編を観ている内に気分が悪くなってしまった。「サイレント・ヒル」だの「デス・ノート」など、やたら、ホラー系の映画の予告編が多いこともあったが、大音響のサウンドで、予告編特有のクライマックス・シーンが次々と登場してくるのである。
 朝、早い回の上映だが、観客はそこそこ入っているが、時間帯や内容的に地味な映画のせいか、観客の年齢層は比較的高いようであったが、どんな思いで予告編を観ているのか気になった。
 予告編の上映をすること自体、ダメだと思わないが、観客は、本編の映画を観に来ているのであって、予告編を観にきているのではないのである。本編の映画を観るためのコンセントレーションを高めていき、本編への期待感をもたせるという段階を経て、本編が始まる。昔で言えば、開幕のベルが鳴り、照明が暗くなり、映画会社のマークが流れてくるだけで、わくわくした。
 家で、DVDを観るのではなく、映画館で映画を観るべきと主張する人の言い分はよく、理解できるのだが、映画館自体が、ただ、数多く予告編を流せばいいという無神経なことをしていることに腹がたってしかたがなかった。
 本編が始まっても、しばらくの間、予告編の残響音が耳というか頭の中に響きわたっていた。本編が、淡々と静謐に描かれる映像で、鋭く、社会を告発するいい映画であっただけに、映画館の無神経さに腹がたった。映画を愛する者がいれば、本編との調和性を損なうのではないだろうかと感じるのではないだろうか。

 『ナイロビの蜂』は、ジョン・ル・カレの原作(集英社文庫刊)の世界を忠実に描いている。
  ケニアに赴任した英国外務省の一等書記官ジャスティンについてきた妻のテッサは、黒人たちの住むスラムに出かけ、スラムで働く黒人医師アーノルドとともに救援活動をするようになる。多くの黒人たちがエイズ、結核に罹患している。テッサたちは、製薬会社のスリー・ビーが新薬の治験をしており、治験者達の何人かが、治験のために、死亡していることに気づく。ジャスティンは、ガーデニングを趣味とし、赴任地でも植物の世話に明け暮れ、テッサの行動に関心を示そうともしないが、干渉もせず、二人の仲は平穏であった。
 救援活動に向かったテッサが殺され、同行したアーノルドが行方不明となる。テッサの死に、不審なものを感じたジャスティンは、テッサの死の真相を探っていき、製薬会社の新薬をめぐる陰謀があり、英国政府の高官もからんでいることに気づく。

 派手なアクション・シーンもなく、声高に、社会を、国家を糾弾することもなく、淡々と話は進んでいく。黒人たちの住むスラム、蔓延するエイズと結核、黒人の子ども達の笑顔、白人の手先となって同胞を襲うおとこたち、そこには、饒舌な説明もないが、想像力のある受け手には様々な思いをかき立ててくる。
「地の果てで、やっと君に帰る。」というこの映画のコピーが色あせてみえる。この映画には、愛を装っているが、そこには救いのない邪悪な社会への絶望の思いが秘められている。
 日曜日の昼下がり、映画館を出ると、雨が降っている。映画の余韻がじわじわと沸いてくるのだが、あの予告編の無神経さに余計腹がたってきた。
  

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