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2006年7月23日 (日)

 『複眼の映像』

○2006年7月23日(日) 『複眼の映像』橋本忍 文藝春秋

 太平洋側の姫路から日本海側の城崎を結ぶ鉄道である播但線のほぼ真ん中のにある生野という町で小学生の頃を過ごした。わが家には、幅90cm、高120cmの小さな本棚がひとつあるだけであった。父や母が雑誌以外の本を読んでいる姿は見た記憶はない。文芸春秋や婦人の友などの雑誌の類いを読んでいたという程度である。
 ただ、小学生時代、小遣いやお年玉をもらったりする習慣がなかったのだが、つけで本屋でから本を買うことができた。といっても、田舎の本屋であるので、本がたくさんなかった。ちょっとした買い物には、1時間半ちかく汽車に乗って、姫路まででかけた。姫路の本屋で本を買って、帰りの車内で読むのが何よりの楽しみであった。本棚には、このようにして買った、少年探偵団やホームズ、ルパンの本が並んでいた。その中に、自分で買った記憶にない1冊の本があった。確か、作者は直木三十五であったと思うが、「日本剣豪列伝」という本であった。塚原卜伝、伊藤一刀斎、上泉信綱などの剣豪を描いた短編集である。
 生野の住んでいた家のすぐそばに市川という名前の川が流れていた。瀬戸内海の方に流れて行くのだが、その下流に市川という町があり、橋本はその町で生まれている。橋本は、播但線に乗って、姫路にある会社に通いながら、京都に住んでいた伊丹万作を師として脚本家になるべく修業をしていた。
 橋本が芥川龍之介の『藪の中』を原作として書いたシナリオ「雌雄」が黒澤の目にとまり、黒澤と共同で脚本を書くことになる。このような経過をたどって、黒澤は、ベネチア映画祭でグランプリをとり、一躍、国際的な映画監督となるきっかけとなったった『羅生門』が生まれ、橋本も脚本家としてデビューすることになる。橋本の書いたシナリオが短いので、黒澤は、初対面の橋本に芥川の書いた『羅生門』を入れて、書き直すように依頼し、映画『羅生門』となったのである。
 このときの黒澤とのやりとりから、橋本は、シナリオが映画の設計書であることを教えられたとする。
 橋本は、シナリオライターの目から、黒澤の映画の本質を鋭く分析し、批評をする。橋本は、黒澤より8歳程若いのだが、橋本が黒澤を観る目は、時には不遜と思えるほど厳しい。

 橋本は、複数の脚本家による緻密な共同作業が黒澤の映画の神髄であり、その集大成が『七人の侍』であったとする。
 そして、黒澤は、夜盗から村を守るために雇われた七人の侍の一人一人のディテールを書いたノートを用意していたという。用意されたディテールのすべてが、映画に直接でてくるわけではない。しかし、七人の侍のキャラクターを丁寧に描くことにより、登場人物の造形に深みが増していくのだという。

 ”シナリオを書く場合、誰でもテーマとかストーリーはそれなりに作るが、面倒臭くて手が抜けるのが人物設定、人物の彫りである。ある程度ストーリーが整い、大箱(構成の四つ箱)も出来て、出だしが決まると、人物の彫りや設定をスッ飛ばし、本文の書きに入ってしまう。”
  ”人間は恐ろしいほど数多い共通点を持ちながら、一人一人に特質があって違うのだ。だからドラマが成立する。人物を彫らず、ありきたりに書けば、俳優さんはありきたりにしか表現しない。人間を彫り込み、特質を書き込んでこそ、俳優さんの演技にも初めて工夫と努力が生まれる。”           (p142)
 
 骨だけのすかすかのシナリオから、監督が現場で作り上げるという方法もあるし、俳優が読み込んで役作りをするというやり方もあるだろうが、この頃の黒澤の映画は、複数の脚本家がそれぞれの個性をぶつけ合いながら、重厚な物語を作り上げていたのである。
 橋本は、徳川時代に出版された『本朝武芸小伝』をもとに、上泉伊勢守、塚原朴伝、宮本武蔵、柳生但馬守、小野次郎右衛門、松林佐馬之助、千葉周作、榊原謙吉らの人物像から七人の侍の一人一人を描いていったという。
 ここに上げられている剣豪は、直木三十五の『日本剣豪列伝』にも登場している。映画『七人の侍』のエピソードや人物像に既視感があった。それが、子どものころに読んだ『日本剣豪列伝』からきたものであった。直木三十五が『本朝武芸小伝』をもとに『日本剣豪列伝』を書いたのかもしれないし、橋本が『日本剣豪列伝』も参考にしたのかもしれない。

 橋本は、『七人の侍』を最後に、黒澤の映画は生彩を欠くようになったとする。共同脚本の良さも、顔ぶれが固定化し、マンネリ化していったという。

 野村芳太郎は、橋本に「黒澤さんにとって、橋本忍は会ってはいけない男だったんです。」といったという。『羅生門』などで、外国で賞を取ったりしたから、黒澤は映画にとって無縁な思想や哲学、社会性を作品に持ち込むようになってしまったというのである。
そして、黒澤が「純粋にですよ、映画の面白さのみを追求していけば、彼はビリー・ワイルダーにウィリアム・ワイラーを足し、二で割ったような監督になったはずです。」と野村は語ったという。(p226)

 橋本は、黒澤にとって、『七人の侍』がライター先行形のシナリオ作りの終着点であったとする。職人のように作り上げていくシナリオ作りから、テーマやストーリーも人物設定、話の構成もしない、準備稿も作成しないで、頭の中で練り上げ、いきなり決定稿を作っていく。最高級の腕を誇る偉大な職人から、一人の芸術家に変貌してしまったとする。(p254)
 そして、橋本は、黒澤は、『夢』によって、ようやく、芸術家の域に達したとする。

 橋本は、黒澤が挫折した「暴走機関車」「トラ、トラ、トラ!」のことにはほとんど触れていないが、橋本のシナリオ作りという観点からの黒澤の軌跡を見ていくと、当時の黒澤の考えていたことが、ハリウッド流の映画作りとは異質の世界に行こうとしていたことが手に取るように分ってくる。
 大がかりに、派手な映画を作るときにこそ、共同作業が必要となるにもかかわらず、黒澤はそうでなかった。そこには、芸術家としてハリウッド映画を撮ろうとしたことの悲劇があり、撮影に入っての黒澤の奇矯な行動は喜劇的であったことの謎が、この本で解き明かされているように思えるのだが。
  

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2006年7月21日 (金)

『黒澤明VS.ハリウッド』

○2006年7月21日(金)
    『黒澤明VS.ハリウッド』 田草川弘 文藝春秋

 1967年4月、映画『虎 虎 虎』の製作発表会が開かれた。
 「赤ひげ」の後、ハリウッドで取るはずであった「暴走機関車」の製作を突然延期していた黒澤は、二十世紀フォックスと提携し、真珠湾攻撃を日米双方から描くとして、意欲満々であった。
 この時、黒澤は57歳、油が乗り切った時である、と書き出したが、今の私と同年である。57歳を油が乗り切った時といってよいのであろうか。
 「姿三四郎」で監督デビューをしたのが33歳、ヴェネチア映画祭でグランプリを獲得した「羅生門」は40歳の時である。そして、「七人の侍」(44歳)、「用心棒」(51歳)、「天国と地獄」(52歳)と続く。「天国と地獄」では、モノクロの映画であったが、煙突からでる煙の色をカラーにして話題になった。ミステリ、とりわけ、ハードボイルド・ジャンルのミステリが好きであった私は、「用心棒」、「椿三十郎」「天国と地獄」のあたりを同時代的に封切りを待ちわびて観ていたが、カラーとなった「赤ひげ」以降は、熱心に観ることもなくなっていた。
 アメリカを舞台にする「暴走機関車」は、黒澤がアメリカに乗り込むにふさわしいアクション映画となるのではないかと期待していたが、いつの間にか、「虎 虎 虎」という合作映画の発表となり、1968年12月に至り、黒澤は、二十世紀フォックスから解任を言い渡されてしまった。
 解任の理由はあれこれ取りざたされていたが、はっきりしていなかったが、”挫折に終わった『暴走機関車』と『トラ・トラ・トラ!』を合わせて、黒澤監督の芸術至上主義がハリウッドの合理主義に翻弄された「失われた五年間」などとも言われてきた。この五年間は黒澤明の五十五歳から六十歳までに相当する。”(p22)
 この本は、映画人ではなかったにもかかわらず、恩師のドナルド・リチーから手伝うように言われ、『暴走機関車』や『虎 虎 虎』の脚本の英語訳に関わることのあった著者がアメリカで見つけたシナリオ稿や契約書などの資料を駆使して、黒澤が二十世紀フォックスから解任された事情を解き明かそうとする。
 空前のヒットとなった『史上最大の作戦』の成功に、二十世紀フォックスのダリル・ザナックが、二匹目のドジョウを狙って企画したのが、日米双方から、真珠湾攻撃を描く『虎 虎 虎』『トラ・トラ・トラ!』の映画であった。
 黒澤は、この映画を通じて、「運命に翻弄された山本五十六という一人の武人(いくさびと)の悲劇」であったが、プロデューサーのエルモ・ウィリアムズは、「七〇ミリの大スクリーンに超立体音響で、真珠湾攻撃の戦闘シーンを観客の度肝を抜く迫力のある大スペクタクル」であった。(p167)
 明らかにされた契約では、日米両者の側から描くこの映画にあって、黒澤は日本側の監督に過ぎず、アメリカ側の監督は別にあり、編集の最終決定権はアメリカにあった。これに対し、黒澤は監督だけではなく製作の総指揮をとるのは自分であると考えていたようである。
 製作を引き受けた黒澤プロダクションの代表者であった黒澤が契約内容を知らなかった。任せていた者にだまされたとしていたようであるが、製作プロの代表者であれば、契約の内容を知らなかったということではすまされないし、真珠湾攻撃を描くアメリカ映画で、日本の軍人の悲劇を正面から描くということが可能であると考えた黒澤の思いこみもどこからでてきたのか不思議である。周囲から巨匠として奉られていたことにより、状況が見えなくなっていたのであろうか。
 山本五十六という武人の悲劇を壮大に描いていこうとする黒澤の脚本が、ハリウッド側によって手直しされようとする様は痛々しい。黒澤の意図とハリウッドの意図との相違が根底にあり、その比較対照が興味深い。
 黒澤自身のスケッチが施された黒澤の脚本は、黒澤の描かんとする映像と音までが聞こえてくるように迫りくるものがある。黒澤の描く山本五十六を観てみたかったという気になる。しかし、アメリカ資本では到底作るには無理があっただろうし、物量的にいえば、アメリカ資本でしか作ることのできない規模のものであった。
 しかし、監督解任に至った理由が、そこにあったとも言いきれない。京都の撮影所で撮影に入った黒澤の行動は奇矯であった。アメリカ側のスタッフのみならず、日本側のスタッフがついていけない事態が続いた。法的には、撮影の遅れが解任の理由となったようであり、そこにはハリウッド側の解任もやむを得ないとする正当な理由もある。
 黒澤が、したたかに、日本側の撮影を完了していれば、編集に際して対立が生じても、何とかなったかもしれないし、黒澤のディレクターズ・カット版ができたりしたら、面白かったかもしれない。
 
 

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2006年7月15日 (土)

『新得・共働学舎』

○2006年7月15日(土)
     『新得・共働学舎』

 上富良野から新得に向かう途中、占冠(シムカップ)のはずれにある1軒家に寄った。住居の横に、小さな店がある。入り口には、不在のときは、下の川にいますので、電話をくださいという張り紙がしてある。その下には、タイル敷きに木枠が施された台風のものが置いてある。ストーブの台として使われていたものらしい。どのような家で使われていたものかは分らないが、いま、作ろうと思ってもできない味わいがある。
 店の中に、エゾフクロウやエゾリスなど北の大地に生きる動物たちの写真が飾ってある。シムカップに住む門間敬行という写真家が撮ったものだという。荷物になるので小さめの写真を1枚購入した。今度、来たときに、この写真家に会ってみよう。

 新得の駅から、車で10分程、町並から少し入ったところに共働学舎があった。正面の円形の建物が、共働学舎で作るチーズなどを売る売店と軽食をだすレストランがある。
 宮島さんのいる事務所はどこだろうかとうろうろしていると、すぐ目の前の窪地で働いている宮島さんがいるに気がついた。
 窪地の向こう側には、城壁のような石積みの壁があり、壁の後ろ側がチーズの熟成庫となっている。熟成庫の温度が高くなっているので、温度を下げるための工事をしているという。
 作業が終わるまでの間、店で働く若い人に、農場を案内してもらうことにした。
 チーズの原料となる牛乳を搾乳する牛舎とチーズを製造する工場が隣接していて、緩やかに傾斜している。よいチーズを作るためには、できるだけ、牛乳に振動を与えず、静かにしておくことが大切なのだという。ここでは、牛舎と工場が隣接し、自然の重力で牛乳が流れるようにしている。
 牛舎と工場が近いと、チーズの製造過程に衛生上の問題が生じる。ここでは、牛舎の床の下に炭を敷いている。この上に敷いた土壌の微生物の作用によって、衛生状態が保たれているのだという。牛舎の近くに行っても、牧場に特有の腐いがしてこない。
 作業が終わった宮島さんとレストランで話をしていると、北海道でチーズ作りをしたいとする若いカップルが訪ねてきた。
 宮島さんの彼らへの話しを聴きながら、出来上がってきたピザを食べた。ここのピザは、柔らかめだが、チーズだけが載ったシンプルさ加減がほどよくおいしい。
 宮島さんは、チーズ作りは、仕事のかたわらとしてなのか、本業としてなのかによって、取り組み方が違ってくるという。彼らは、当然、本業としてしたいとしているのだが、本業を目指すのであれば、それなりの覚悟もいるし、金もかかるのだということを伝えたいのだろう。
 北海道に通っていると、時折、このような若者達に会う。彼らは、農場で働いていたりして、現実の世界を知っていて、すべてにバラ色の世界を夢見ているわけではないのだが、夢があるからこそ、苦難の道を1歩踏み出したいと思っているのである。
 自分が、若い時に、このような夢を見ることができれば、別の人生があったかもしれないと夢想しながら、彼らの話に聴き入っている自分がそこにいた。

 宮島さんの東京の実家と、我が家とはすぐ近くということもあって、近所のレストランで何度か話す機会があった。私と同行しているというより、今回、車を運転しているKさんは、仕事の関係で、宮島さんとは何度もあっており、つい、最近も、下川にきてもらったという。そんな縁もあって、今回、新得に行ってみようということになったのである

 雪もなく、緑豊かな中にある新しいログハウス風の店や住居を見ていると、このような環境で仕事をするのも悪くないなとつい思ってしまうのだが、厳寒のときの生活、ましてや、共働学舎の創設時の大変さは想像もできない。
 現在、ここでは60人ほどが働いているという。その中には、働くこともままならない人たちもいるし、田舎の生活にあこがれてきた人たちもいる。ただ、いえるのは、今の環境は、冬は寒いとはいえ、家の中は快適な環境にある。環境がよくなってくればくるほど、それが、当たり前の世界になってくる。
 昔から働いている人と、若い人たちの意識の格差がでてくるのは、都会と同じなのかもしれない。

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2006年7月14日 (金)

『ノルテポトシ』

○2006年7月14日(金) 上富良野『ノルテポトシ』
 
 久しぶりに北海道に行こうと思い立った。北海道といっても、私が出かけていくのは、旭川空港から北の方向を目指すことが多い。
 金曜の夜は旭川のホテルに泊る予定にしていたが、梅雨の季節の北海道とあって、ホテルはどこも空いていなかった。旭山動物園の人気のため混んでいるという話も聞いた。

 下川に住むKさんの、どこか、探しますよとの電話の声に誘われてでかけることにした。向かった先は、上富良野のペンションであった。夕食を用意していないとのこだったので、上富良野の近くで夕飯を食べようと、レストランを探したが、見つからない。
 結局、ラーメン屋に入った。勧められたセット・メニューを頼んだが、支払いをしようとしたら、チャーシューの枚数が多かったということで、結局、一品分の料金をとられてしまった。
 電話で確認した山道を上がっていくと、開けた空き地に、手作り風の小さなペンション『ノルテポトシ』が見えてきた。外見もそうだが、内部も合板がむき出しの手作りペンションであった。
 カルロスおじさんと自称するペンションのオーナーが、食堂で演奏をするので来いという。明日の演奏会のリハーサルをするのだという。ギターを弾くおじさんに若い女性が2人が、竹の縦笛ケーナを吹いたり、太鼓をたたいて、アンデスの音楽フォルクローレを10曲ばかり、明日の打ち合わせをしながらの演奏を聞いた。途中で、間違えたり、とちったりもしたが、山の中の手作りの小屋に似合った光景がほほえましかった。
 彼らの演奏グループ、ロス・ピエトスは、アンデスの物語を綴った自作の紙芝居をしながら、各地で演奏しているのだという。
 下川町の町はずれにあるレストラン・モレーナは、カレーとナンがおいしい、私のお気に入りの店だが、店主の栗岩さんも、世界中を放浪した末に、下川にたどり着いた。ギターを弾き、画を描いている。カルロスおじさんは、栗岩さんをよく知っているという。

 富良野で働きながら演奏活動をしているドテ・カボチャ(DOTE QUABOCHAS)のCDを聴きながら書いている。富良野とアンデス、非なる世界と思うのだが、広大な風景が共通なのかなと最初は思ったのだが、それよりは、生活と楽しみが隣り合っている暮らしというほうが当たっているような気がする。音楽があるから、仕事をするのであり、仕事があるから音楽をするのであろう。
 若い2人の女性が、日常、どのような生活をしているのかは知るよしもないが、都会の雑踏の中とは違う世界があるのだという思いが募った。
 客の一人の若い女性は、登別温泉の伊達時代村で、役者をしているという。演劇志望のその女性は、小田原出身で、時代村に来て、3年ほどになるとのこと。
 演奏が終わったあと、飲みながら、時代村の仕事をしながらでもいいから、何かを始めなければ、時間に流されてしまうよと、おじさんぽい話をしてしまった。
 それにしても、このように、肩肘をはらずに生活をしている若い人に会うと、日本も捨てたものではないと、都会では得られない元気をもらえる。

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2006年7月13日 (木)

『新・お葬式の作法』

   ○2007年7月13日(木)

    『新・お葬式の作法』 碑文谷創 平凡社文庫

 副題に「遺族になるということ」とある。
 昨年、父を亡くしたので、遺族となったことがある。その前はというと、30年近く前に、祖父を亡くしたときである。祖父といっても、母方で、遊びにはよく出かけたが、同居していたことはなかった。また、ここ数年、叔父を何人か亡くしている。
 従って、親族の葬儀ということを経験したことは多くはない。しかも、純然たる遺族という立場で、葬式に立ち会ったのは、父の時が初めての経験であった。
 我が家の屋根が遠くに見えるホスピスで最期を迎え、病院から家の近くを通って、葬儀場までの距離が3km程度の場所にある葬儀場で葬式を行った。私も、兄も、仕事関係の知人には知らせず、親しくしている親族のみで、葬式を行った。
 仕事の関係者には、私の個人的に親しくしている友人、知人もいるのだが、一人に知らせると際限がなくなるので、知らせなかった。
 このような葬儀を家族葬という。
 
「家族葬が人気を集める背景には、高齢化、親類縁者という血縁関係の弱まり、地域社会の崩壊、リストラ等による企業社会の弱体化、さらに家族そのものの分散、解体がある。」
(p16)

 筆者は、神学大学を卒業し、現在、葬儀業界の業界誌「SOGI」の編集長をするかたわら、葬儀に関わる「死の文化」について評論活動をしている。
 
 「かつてであれば、葬式に「人並み」であること。「社会的にはずかしくない」ことが求められ、宗教的観念においても死者を「あの世へ送る」ことが大切とされた。だが、そうした価値観が音をたてて崩れてきたのである。」(p17)
 我が家の墓は、豊橋にある。新幹線で、2時間程度でいくことができるのだが、子どものころに、墓参りをした記憶しかなかった。墓に入っている父方の祖父母は、私が生まれる前に亡くなっており、顔も知らない。お盆に帰る田舎でもない。
 というわけで、墓参りに関心はなかった。
 父は、都心の近くに、墓をつくっておきたかったようである。近いところに墓がなければ、誰も墓参りにきてもらえないと思っていたようである。
 兄と話し、とりあえず、豊橋の墓に納骨をして、後でゆっくり考えようということになった。小さな寺である。昔、寺が移転させられたという歴史があり、10軒近い寺が並んでいて、墓地もそれらの寺が共同に使用していて、隣は普通の民家である。
 昨年、新盆にでかけた。暑い夏、檀家の人たちがお手伝いをしていた。子ども達も、もらったお菓子を食べながら遊んでいる。田舎の寺もいいものだと思った。記憶の向こうから、子どもの頃に過ごした近所の寺の風景を思い出した。
 東京では、葬儀のおりにしか寺にでかけることはない。その多くは、葬儀社が仕切る儀式化した葬儀であることが多い。
 京都のような町に行った折りには、古刹といわれる寺を散策することはある。しかし、その寺の宗教に思いはせることもなくなっていた。
 「地域共同体による葬儀」、「都市化と葬送作法の喪失」「多様化する葬儀の背景」「あの世意識の弱化」と、碑文谷は葬儀のもつ意味とその変遷を分りやすく説いている。
 キリスト教の天国という表現が仏教の葬儀でも使われ、日本の社会に受容されてきたことがもつ意味を探るなど、今、当たり前のように行われている葬儀の作法がそれほど、古くからのものではないとしたりする。そして、人の死というものを身近なことから隠そうとすることに警鐘をならす。
 大切なことは、葬儀の一つの主体は送られる死者であり、死者を送る遺族であるとし、葬儀のもつ意味、あり方を具体的にわかりやすく説明している。
 この本は、単に葬式の作法を教えるのではなく、葬式という視点から、大きく代わりつつある我々の生活のありかたを問い直す書として、一読をしてほしい本である。

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2006年7月11日 (火)

『「ニッポン無責任時代』 『映画が夢を語れたとき』

○2006年7月11日 『「ニッポン無責任時代』 渡辺晋 監督
               『映画が夢を語れたとき』 田波靖男 広美出版事業部

 ウスリースクの大学に日本語を教えに行っているHさんが夏休みで帰国しており、今日の映画を観る会にくるという。
 シベリアにちなんだ映画といえば、『シベリア超特急』などを思い浮かぶが、どうも食指が動かない。
 面白い日本映画をと、ショップの棚を眺めていて、田波靖男さんが脚本を書いていた若大将シリーズを思いだした。
 田波さんの解説つきで『エレキの若大将』を観ようということになった。ところが、予定の日の近くになって、田波さんから、体調が悪いの延期してほしいとの電話があった。訃報を聞いたのはそれから数か月後のことであった。あれから、何年経ったのだろうか。
 久しぶりに、田波さんの脚本の映画を観ようと考えた。田波さんといえば、やはり、クレージー・キャッツというより、植木等の無責任シリーズであるが、この中から、何を選ぶかが難しい。
 そこで、田波さんの書いた『映画が夢を語れたとき』を読み返してみた。映画が好きだった田波さんは、1957年に大学を卒業し、東宝に入社した。助監督試験に合格しての入社にもかかわらず、配属されたのは、文芸部であった。助監督になった同期生は、黒澤明など一流監督の助手に配属されているというのに、文芸部の片隅で新聞の連載小説の切り抜きをしていた。文芸部には、岩波ホールの総支配人になった高野悦子や作詞家になった岩谷時子がおり、高野は、次の作品の企画のために、映画館にで行き、新作映画の客の反応を調査する仕事をしており、岩谷は越路吹雪のマネージャーをしながら、シャンソンの訳詞をしていたという。
 加山雄三を主役とした若大将シリーズの第1作「大学の若大将」が公開されたのが1961年であるから、田波さんが28歳の頃である。そして、無責任シリーズの第1作『ニッポン無責任時代』が誕生したのが、翌年の1962年である。
 植木等扮する平均(たいらひとし)が「サラリーマンは気楽な稼業」と歌いながら、乗っ取り騒ぎに揺れ動く酒造会社を舞台に、社長についたり、乗っ取りを謀る会社のオーナーに近づいたりと飛び回り、なにやら画策していく。この映画を観たスーダラ節の作詞者である青島幸男が、「アメリカのハードボイルド小説みたいなところが、とてもよかったなあ」と評したという。田波さんは、ハードボイルド小説が大好きで、「行き当たりばったりに対処してゆく、筋立てはハードボイルド小説のオマージュのつもりだった。」(p59)として、青島がこれを見抜いたことに嬉しくなる。
 主人公が対立する陣営を行ったり、きたりするのは、ハメットの「血の収穫」のプロットである。このプロットを使った黒澤明の「用心棒」の三船敏郎のコミカルな演技と植木等の様子が重なってくる。
 都心のビジネス街を都電が走っていたり、ビルの屋上では、昼休み、若い男女がバレーボールに興じる様子など、オールタイマーにとっては古き懐かしき時代の世相がよみがええてくる一作である。
 ラスト・シーンは、横浜プリンス・ホテルの庭での結婚式であった。
 そういえば、先日、西武鉄道グループの再編により、横浜プリンス・ホテルは取り壊しとなり、マンション用地となるというニュースが流れていた。
 

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2006年7月 6日 (木)

『ライブドア監査人の告白』

   ○2006年7月6日(木)
     『ライブドア監査人の告白』  田中慎一  ダイヤモンド社

 著者の田中は、ライブドアの監査人であった港陽監査法人のパートナー(共同経営者)である。
 ライブドアは、粉飾決算等により、代表者員らが逮捕され、刑事責任を問われており、現在、刑事裁判手続きが進行中である。
 この事件では、堀江貴文社長、宮内亮治取締役CFOのほかに港陽監査法人の元パートナーであった久野太辰らが起訴されている。起訴事実は、証券取引法違反である。
 一つは、風説の流布及び偽計取引である。風説の流布とは、株価の操作を行う目的で虚偽の情報や根拠のない噂を流すことであり、偽計取引とは、やはり、株価の操作を行う目的で人をだましたり、虚偽の情報を名がすることである。
、もう一つは、有価証券報告書の虚偽記載、いわゆる粉飾決算である。架空の売り上げを計上して、ライブドアの利益を水増ししたというものである。
 新聞報道では、今ひとつ、容疑事実を理解できなかったが、公認会計士である田中が、容疑となっている仕組みを図示しながら丁寧に説明をする。
 ライブドアに強制捜査が入ったのが、今年の1月16日である。そして、この本が刊行されたのが、5月25日である。まさしく、田中のパートナーであった久野が逮捕・起訴されたに対し、田中は起訴されなかったが、被疑者とされてもおかしくない立場にあったのだから、同時進行中のドキュメントである。
 最近、日本でも、刑事事件の被告人が刑事裁判手続中に、反論の書を刊行することが目につくようになった。有罪が確定した後に出されるものもある。
 田中は、ライブドア事件の渦中にいたが、起訴されなかった。
 
 「今回の事件を過去の事例に照らして考えた場合、捜査当局が我々を逮捕するという事件の市なりを作り上げることはやなしいことなのだそうだ。中村先生からは、とにかく捜査当局を刺激しないように注意するようアドバイスをうけた。」p25
 「要するに、捜査当局は収集した情報をもとに事件のシナリオを作るわけであるが、事件に関連する当事者が情報を流したり、公式見解を出したりすることは、当局のシナリオ作りの妨害になるというわけだ。万が一、当局の描くシナリオと違う事実がでてこようものなら、彼らの面目を潰すことになる。」(p26)

 田中は、新聞記事だけではわかりにくいこの事件の構図を説明しながら、ライブドアの役員達の責任をわかりやすく解明してくれる。この絵を描いたのは、ファイナンス事業部の宮内亮治取締役であるとし、港陽監査法人の久野太辰元パートナーが監査人としての責任を怠ったとする。そして、田中は堀江貴文社長の責任に言及しながらも、どちらかというと宮内の描く構図に巻き込まれていったとしているようである。
 それだけ、公認会計士であった田中が、同業者であった宮内や久野に厳しいという面もあると思われるが、田中は、役員たちの法的責任は明白であるとしている。
 先日の新聞報道によれば、無罪を主張する堀江貴文の公判で、検察側の証人にとして登場し、宮内は、堀江貴文の拡大路線に引きずられてしまったとするように証言をしているようである。
 根拠のない憶測であるが、堀江は、宮内の手の内で踊っていたピエロにすぎなかったのではないかと思えてしかたがない。宮内も、田中も、検察側の描く構図に載って、話しているにすぎないような気がするのである。ミステリ読みの勘ぐりであろうか。

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