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2006年7月23日 (日)

 『複眼の映像』

○2006年7月23日(日) 『複眼の映像』橋本忍 文藝春秋

 太平洋側の姫路から日本海側の城崎を結ぶ鉄道である播但線のほぼ真ん中のにある生野という町で小学生の頃を過ごした。わが家には、幅90cm、高120cmの小さな本棚がひとつあるだけであった。父や母が雑誌以外の本を読んでいる姿は見た記憶はない。文芸春秋や婦人の友などの雑誌の類いを読んでいたという程度である。
 ただ、小学生時代、小遣いやお年玉をもらったりする習慣がなかったのだが、つけで本屋でから本を買うことができた。といっても、田舎の本屋であるので、本がたくさんなかった。ちょっとした買い物には、1時間半ちかく汽車に乗って、姫路まででかけた。姫路の本屋で本を買って、帰りの車内で読むのが何よりの楽しみであった。本棚には、このようにして買った、少年探偵団やホームズ、ルパンの本が並んでいた。その中に、自分で買った記憶にない1冊の本があった。確か、作者は直木三十五であったと思うが、「日本剣豪列伝」という本であった。塚原卜伝、伊藤一刀斎、上泉信綱などの剣豪を描いた短編集である。
 生野の住んでいた家のすぐそばに市川という名前の川が流れていた。瀬戸内海の方に流れて行くのだが、その下流に市川という町があり、橋本はその町で生まれている。橋本は、播但線に乗って、姫路にある会社に通いながら、京都に住んでいた伊丹万作を師として脚本家になるべく修業をしていた。
 橋本が芥川龍之介の『藪の中』を原作として書いたシナリオ「雌雄」が黒澤の目にとまり、黒澤と共同で脚本を書くことになる。このような経過をたどって、黒澤は、ベネチア映画祭でグランプリをとり、一躍、国際的な映画監督となるきっかけとなったった『羅生門』が生まれ、橋本も脚本家としてデビューすることになる。橋本の書いたシナリオが短いので、黒澤は、初対面の橋本に芥川の書いた『羅生門』を入れて、書き直すように依頼し、映画『羅生門』となったのである。
 このときの黒澤とのやりとりから、橋本は、シナリオが映画の設計書であることを教えられたとする。
 橋本は、シナリオライターの目から、黒澤の映画の本質を鋭く分析し、批評をする。橋本は、黒澤より8歳程若いのだが、橋本が黒澤を観る目は、時には不遜と思えるほど厳しい。

 橋本は、複数の脚本家による緻密な共同作業が黒澤の映画の神髄であり、その集大成が『七人の侍』であったとする。
 そして、黒澤は、夜盗から村を守るために雇われた七人の侍の一人一人のディテールを書いたノートを用意していたという。用意されたディテールのすべてが、映画に直接でてくるわけではない。しかし、七人の侍のキャラクターを丁寧に描くことにより、登場人物の造形に深みが増していくのだという。

 ”シナリオを書く場合、誰でもテーマとかストーリーはそれなりに作るが、面倒臭くて手が抜けるのが人物設定、人物の彫りである。ある程度ストーリーが整い、大箱(構成の四つ箱)も出来て、出だしが決まると、人物の彫りや設定をスッ飛ばし、本文の書きに入ってしまう。”
  ”人間は恐ろしいほど数多い共通点を持ちながら、一人一人に特質があって違うのだ。だからドラマが成立する。人物を彫らず、ありきたりに書けば、俳優さんはありきたりにしか表現しない。人間を彫り込み、特質を書き込んでこそ、俳優さんの演技にも初めて工夫と努力が生まれる。”           (p142)
 
 骨だけのすかすかのシナリオから、監督が現場で作り上げるという方法もあるし、俳優が読み込んで役作りをするというやり方もあるだろうが、この頃の黒澤の映画は、複数の脚本家がそれぞれの個性をぶつけ合いながら、重厚な物語を作り上げていたのである。
 橋本は、徳川時代に出版された『本朝武芸小伝』をもとに、上泉伊勢守、塚原朴伝、宮本武蔵、柳生但馬守、小野次郎右衛門、松林佐馬之助、千葉周作、榊原謙吉らの人物像から七人の侍の一人一人を描いていったという。
 ここに上げられている剣豪は、直木三十五の『日本剣豪列伝』にも登場している。映画『七人の侍』のエピソードや人物像に既視感があった。それが、子どものころに読んだ『日本剣豪列伝』からきたものであった。直木三十五が『本朝武芸小伝』をもとに『日本剣豪列伝』を書いたのかもしれないし、橋本が『日本剣豪列伝』も参考にしたのかもしれない。

 橋本は、『七人の侍』を最後に、黒澤の映画は生彩を欠くようになったとする。共同脚本の良さも、顔ぶれが固定化し、マンネリ化していったという。

 野村芳太郎は、橋本に「黒澤さんにとって、橋本忍は会ってはいけない男だったんです。」といったという。『羅生門』などで、外国で賞を取ったりしたから、黒澤は映画にとって無縁な思想や哲学、社会性を作品に持ち込むようになってしまったというのである。
そして、黒澤が「純粋にですよ、映画の面白さのみを追求していけば、彼はビリー・ワイルダーにウィリアム・ワイラーを足し、二で割ったような監督になったはずです。」と野村は語ったという。(p226)

 橋本は、黒澤にとって、『七人の侍』がライター先行形のシナリオ作りの終着点であったとする。職人のように作り上げていくシナリオ作りから、テーマやストーリーも人物設定、話の構成もしない、準備稿も作成しないで、頭の中で練り上げ、いきなり決定稿を作っていく。最高級の腕を誇る偉大な職人から、一人の芸術家に変貌してしまったとする。(p254)
 そして、橋本は、黒澤は、『夢』によって、ようやく、芸術家の域に達したとする。

 橋本は、黒澤が挫折した「暴走機関車」「トラ、トラ、トラ!」のことにはほとんど触れていないが、橋本のシナリオ作りという観点からの黒澤の軌跡を見ていくと、当時の黒澤の考えていたことが、ハリウッド流の映画作りとは異質の世界に行こうとしていたことが手に取るように分ってくる。
 大がかりに、派手な映画を作るときにこそ、共同作業が必要となるにもかかわらず、黒澤はそうでなかった。そこには、芸術家としてハリウッド映画を撮ろうとしたことの悲劇があり、撮影に入っての黒澤の奇矯な行動は喜劇的であったことの謎が、この本で解き明かされているように思えるのだが。
  

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