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2006年11月17日 (金)

○2006年11月17日(金) 浅羽莢子さん追悼

○2006年11月17日(金) 

   浅羽莢子さん追悼

 9月18日に亡くなった翻訳家の浅羽莢子さんの追悼式が、銀座教会で執り行われた。
彼女は、東大生であったが、どういうわけか、私の所属していた大学の推理小説同好会の一員となっていた。
 彼女の追悼文は、ミステリマガジンの12月号に書いているので、そこには書きそびれたことをいくつか書いておこうと思う。
 数年前、大学のミステリ・クラブとしては最古の慶応義塾大学推理小説同好会が創立50周年を迎えた。同好会のOB、それも、長老の部類に入るOBたちから、50周年を記念の会誌「推理小説論叢」を出そうではないかという話しがでてきた。
 実をいうと、同好会の機関誌であった「論叢」は長らく休刊状態であった。50周年記念に出した論叢は40輯であったが、その前の39輯は30周年記念誌となっているのだから、20年でていなかったことになる。
 さらに、浅羽さんの話しからそれるが、神奈川近代文学館の理事長をしている紀田順一郎さんは、創設当時のOBであるが、現役の学生時代に「論叢」に書いた評論の一部が『戦後創世記ミステリ日記』(松瀬社)に掲載されている。1960年代に少年マガジンのグラビアで、「怪獣図鑑」などの記事を作っていた大伴昌治さんも創設当時のメンバーで、学生時代のクラブの様子が大伴さんを取材した「OHの肖像」(飛鳥新社)に書かれている。

 プロの作家や評論家を多く輩出しているワセダ・ミステリ・クラブに対し、我がクラブは伝統的に、余技として、ミステリに関わっているものが多いのだが、浅羽莢子さんは、東京大学を卒業し、英国留学を経て、ミステリやファンタジー小説の翻訳家として活躍するようになる。
 浅羽さんは、外交官の父とともに、シンガポール、インド、英国などの地で、子ども時代を過ごしていたいわゆる帰国子女のはしりにいた。周囲のことに気を配っていなかったとはいえないが、我が道をいくかのごとく、早口しゃべり続ける様子は、帰国子女の一つの典型と得心がいく。そういうと、彼女は怒るかもしれないが・・。

 論叢の話しに戻ろう。50周年記念として、各自が自分の「ミステリ50選」を編むという企画になった。執筆依頼から、原稿督促までと、とにかく、原稿を書かせるのが大変であった。50選といっても、いざ選ぶということになると、結構な力業となる。脅したり、すかしたりしながら、原稿を書かせていたのだが、浅羽さんは、文芸ミステリ50選をするということになった、20選しか選べないといってきた。
 しかも、
”好む分野であるだけに、五十点くらい軽く選べると思っていたのだが、あにはからんや、何をもって文芸ミステリとするかを考え、さらに作品そのものの出来や好みを考慮に入れたところ、五十はおろか二十にも届かなかった。」
  として、タイトルは、「文芸美術ミステリ20選」ということになった。
 彼女は、扱い方の種類として、①創作型、②世界型、③実在型、④本歌取り方に分けて、ミステリを20選している。
 今、読み返してみると、50選を選ぶために、まず、「扱い方」という類別を定めたようにみえる。おそらく、この類別とは異なるものを考えて、50選にしようとしていたとも推測される。
 彼女の「文芸美術ミステリ20選」は、『推理小説論叢第四十輯 創立五十周年記念号』(トパーズプレス刊)に掲載されている。地方商流通出版センターの扱いと書店にいえば、注文できるので、興味のある方はお取り寄せください。そういえば、池袋のジュンク堂のミステリの棚にあるのをつい最近見かけたので、まだ、あるかもしれない。
 
 本の宣伝は、これくらいにして、先に進もう。
 このような経過があって、彼女から原稿のフロッピーが送られてきて驚いた。8インチのフロッピーできたのである。昨今、3.5インチ・フロッピーも見なくなったが、5インチの前のペラペラした8インチフロッピーである。OBから原稿を集めるにあたって、手書き原稿やオアシス等のワープロ専用機で作成したものがくるのは覚悟していたので、大枚をはたいて、ワープロ専用機からの変換ソフトを準備していたのだが、8インチ・フロッピー用のスロットルのあるパソコンなどはどこを探してもあるわけはない。結局、事務所の事務員に頼んで、打ち直し作業をした。
 先日、東京創元社の編集者にその話をしたら、創元社でも、対応できる業者を探して外部委託をしていたとしていた。
 私は、そのとき、彼女に、編集者の身になってみろよとの嫌みをいっていた。私のその気持ちは、今でも、変わらないが、そういうことを平気でできるというのが、彼女の強さでもあったし、仕事ができるからこそ許されたのだろう。

 7月の下旬、久しぶりに、彼女から電話がかかってきた。自分がガンで死ぬという宣告をされているという。身辺整理を頼みたいとだという。日本語を十分に話せない英国人の夫のことを気遣ってのことである。内面の葛藤はあったと思うが、気丈に対応していた。こちらも、病気のことなど、あれこれ詮索しなかった。急がなければいけないのかと聞くと、そうでもないという。電話からの様子は、普段と変わりがなかった。あれこれと、書類を揃えて確認している内に、お盆近くになってしまったが、彼女の家に出かけて、書類の作成を行った。寝たきりではあったが、弱気の発言はなかった。内心は別として、彼女も、私も、ハードボイルドなやりとりをしていたのだなと、思い出している。

 しばらくして、彼女が木村拓哉関連のコレクションの整理を頼んでいたIさんから、電話があった。彼女は、木村拓哉に関するサイトを立ち上げていたりして、ファンの仲間に広く知られていたとのことであるが、インターネットでミステリやファンタジー小説の関係者から、彼女が亡くなったらしいとの情報が流れるまで、彼女が翻訳家であることを知らなかったものが多かったという。

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コメント

浅羽さんは当時の女子東大生としても多分珍しい帰国子女で、はっきりした物言いと卓抜した英語力で羨ましい存在でした。ご冥福をお祈りします。

投稿: 同級生 | 2010年8月28日 (土) 14時40分

偶然こんなの見つけたよ。 
「  は慶應義塾大学の三田キャンパス、我が推理小説同好会の部室。軟派なサークルにもかかわらず、僕たちには立派な部室があてがわれていて(広告研究会・郵便切手研究会と同室だったけど)、6号室。プリズナーナンバー6の住民などと自称していた、その部屋に浅羽莢子嬢が現れたのである。
  その時は、お兄さんが一緒で、最初に口を開いたのは彼の方だった。
「実は、この妹、東大生なんですが、あちらには推理小説を研究するサークルがないんです。それで、大学が違うのですが、ぜひとも妹を貴サークルに入れてやっていただけないだろうか」という。お兄さんは慶應大学生だったので、莢子さんはそれを頼ってきたのである。
  今でこそ、ミステリのサークルでも他大学との交流は当たり前になっているようだが、彼女はいわば、そのハシリ。仲間に入れない理由もとくにないので、「いいよ」ということになった。」

投稿: 渡辺 研 | 2012年2月 5日 (日) 15時48分

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