« 2006年11月 | トップページ | 2007年1月 »

2006年12月26日 (火)

『私のハードボイルド 固茹で玉子の戦後史』

○2006年12月26日(火)
     『私のハードボイルド 固茹で玉子の戦後史』 小鷹信光  早川書房

 小鷹信光は、1936年生まれである。私より一回り上になる。
 早稲田大学のミステリクラブに在籍している当時から、ハードボイルド・ミステリに魅入られ、以来、研究家、評論家、翻訳者そして実作者として、ハードボイルド・ミステリ一筋に生きてきた人である。
 その小鷹の書いた『私のハードボイルド 固茹で玉子の戦後史』が上梓された。表紙には、「HARD-BOILED,THAT’MY WAY」と英文表記がされている。
この英文表記にふさわしく、小鷹が学生時代に巡り会ったアメリカ文化、ペイパーバックの世界、そして、ハードボイルド・ミステリを第二次世界大戦の終結から現在に至るまで回想しながらも、ハードボイルドとは何かという永遠の命題を突き止めようとする。
 小鷹のアメリカ体験は、西部劇など映画、米軍の極東放送、米兵が日本に持ち込んだペイパーバック、リーダース・ダイジェストに始まる。
 一回り下の私にとっては、米軍の占領下という名残はかすかにあったが、「陽気なネルソン」や「サンセット77」といったテレビ放送がアメリカ体験であり、西部劇はリバイバル公開の時代であった。
 私が、早川ミステリ・マガジンの前身であるエラリー・クイーンズ・マガジンを読み出したのはいつ頃のことであろうか。都筑道夫が編集長であった007の特集号がでたころには、毎月の発売日を楽しみに待っていたのであるから、高校生のころであっただろうか。小鷹の回想を追いながら、いつしか、自分自身のミステリ遍歴・読書遍歴を追体験していた。そういえば、都筑道夫、生島治郎、常磐新平が編集長をしていた当時のミステリ・マガジンが、私自身のアメリカ体験の原点であり、その後の人生に大きな影響を受けたなどと、自分自身を振り返り、彼らに出会わなければ、もっと違った人生になったかもしれないなどど・・・。
 このようなことを書くと切りがないので、小鷹の本の内容に戻ろう。
 江戸川乱歩は探偵作家であるとともに、欧米の探偵小説を日本に紹介した功績が大きく、現代のミステリ小説の隆盛の基礎を作ったことは誰しも認めるところである。
 乱歩は、ダシール・ハメットを紹介するに際して、「フランスのアンドレ・ジイドが、ハメットの『赤き収穫』を、口を極めてほめ上げたのである。」(雄鶏通信)と書いた。日本の社会にいまだ認知を受けていないハードボイルド作家のハメットを紹介するために、アンドレ・ジイドの言葉を引用したのである。権威のある者がほめているというのは、新人作家を売り出すときの常套句であり、現在でも、書籍の広告や帯で、しばしば使われている。
 今まで、「アンドレ・ジイドがハメットをほめた」という言説をどれだけみただろうか。そのすべてが乱歩の上記の文章がもとになっていた。乱歩は、雑誌「世界」の記事をもとにしているが、その記事は、世界の記者がジイドとの「架空会見記」を創作したもので、乱歩が誤認し、その誤認情報が何度も引用されてきたというのである。

 小鷹は、ハードボイルドという言葉が、日本でいつ頃、どのように使われてきたのかということを追いかける。
 
 ”翻訳やエッセイも数多くものしてきた明治生まれの映画評論家、双葉十三郎が「ハードボイルド」というカタカナ英語を初めて用いて、レイモンド・チャンドラーの長編デビュー作『大いなる眠り』を映画雑誌に紹介した1946年が、日本のハードボイルド元年だった。」                            (p81)

 小鷹は、ハードボイルドという用語の使われ方を、双葉十三郎の映画評を集大成した『ぼくの採点評』(トパーズプレス刊)の丹念に探り、四〇年代末に公開された『ローラ殺人事件』、『裸の町』の2本の映画評に「ハードボイルド」が登場し、五〇年代には、18本の映画評に登場するという。
 故瀬戸川猛資が編集・刊行した『ぼくの採点評』には、私も若干かかわっているのだが、このような使われ方があったのかと感心するとともに、この用語を追いかける小鷹の気概がみえてくる。
 
 1955年に創立された早稲田ミステリ・クラブに小鷹も入部するのだが、射撃部に在籍した男がいた。大藪春彦である。彼は、学生時代に書いた「野獣すすべし」で鮮烈に作家としてデビューする。その様子を、間近に見ながら、切歯扼腕したりと、小鷹のミステリ遍歴は学生時代から始まる。
 私は、早稲田ミステリよりも前の1952年に設立された慶応義塾大学推理小説同好会に所属していた。ミステリ・クラブでは、毎年、早慶交歓会をしていた。瀬戸川猛資と知り合うきっかけになったのだが、ここに登場する早稲田ミステリの面々の話もよきくことがあった。
 私のハードボイルド・ミステリの遍歴は、小鷹の著作に影響されることが多かっただけに、小鷹の『私のハードボイルド』を読みながら、いつしか、自分自身の読書遍歴を追体験していた。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年12月24日 (日)

『再起』

○2006年12月24日(日)
       『再起』 ディック・フランシス 早川書房

 SRのT会長から、ディック・フランシスの新作『再起』が面白かったというメールがきた。そして、小説を書いているのはディック・フランシスの妻のメアリであるといううわさがあったが、2000年にメアリが亡くなった後に、発表された『再起』によって、ディック・フランシス自身が書いていることが証明されたと書かれていた。
 私は、すぐさま、冗談半分に、現在、ディック・フランシスの息子のフェリックスが書いたということも考えられるのではないかと、メールを返した。
 ディック・フランシスのミステリは、妻であるメアリの代作ではないかというのは、フランシスの書斎を訪れた日本人カメラマンの書いたものを読んだことがある。その根拠は、確か、フランシスが書斎にあるタイプライターをうまく打つことができなかったことにあるとしてたと思う。

 フランシスのミステリの面白さは、冒頭の一章に詰め込まれている。最初の一章に、主人公の職業、性格そして、主人公のおかれた状況が英国人特有のシニカルな筆致で、これから起きる事件の予兆、伏線を散りばめられていて、一気に物語りに引き込まれてしまう。
先月、発売された『ミステリの名書き出し100選』(早川書房)では、北上次郎は、フランシスのミステリにはレースのシーンが少ないとして、レースの場面で始まる『本命』のレース・シーンの書き出しを選んでいる。
 自分であれば、どの作を選ぶであろうか、沢山ありすぎて迷って決めきれないかもしれない。

 『再起』は、このような書き出しで始まる。

 ”悲しいことだが、競馬において、死はめずらしくない。だが、ある午後だけで三つもの死となると充分にめずらしく、たんに片眉を上げるだけではすまない。馬の死がそのうち一件だけとなる、地元警察が大急ぎで競馬場に駆けつけるのに充分だ。”(p5)

 この書き出しだしを読むだけで、ニヤリとして、次に何がくるのだろうかと惹きつけられてしまう。主人公は、障害馬レースの転倒事故により、片腕を失った元騎手で、現在は調査員をしているシッド・ハーレイである。
 ディック・フランシスのミステリは40冊目であるが、4度目の登場となるシッド・ハーレイであるが、第1章で、シッド自身のことが紹介され、事件の伏線となる騎手と調教師が罵倒しあう場面が登場し、シッドの現在の恋人にさりげなく触れる。
 
 第1章を読んだだけでも、ディック・フランシス健在なりとわくわくして読み終えた。
 シッドの宿敵となってしまった別れた妻ジェニイも登場し、窮地に陥ったシッドの闘いと、見せ場もたっぷりである。
 読み終わって、86歳になっているディック・フランシスがこれだけ迫力のあるものを書いたということに驚嘆しながらも、冒頭の疑問が再燃してくるのだが、野暮な勘ぐりはやめて、ただひたすらこのミステリを楽しめばいいのであろう。

 最後に、このミステリの訳者が菊池光から北野寿美江となった。前作までのすべての作品を訳していた菊池光が2006年に亡くなっている。合掌。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年12月14日 (木)

 『さようなら、サイレント・ネイビー』 

○2006年12月14日(木)

    『さようなら、サイレント・ネイビー』 伊東乾 集英社

 1995年3月20日、自分自身が何をしていたか、よく覚えていない。霞ヶ関に出かけてはいないことは確かである。数日後、霞ヶ関にある裁判所の裏手にあった弁護士会の建物を訪れたときに、周辺を歩くことに、必要以上に恐怖感を覚えたことだけが記憶の底にある。
 現在、地下鉄の霞ヶ関駅の構内にも、神谷町駅にも、地下鉄サリン事件の痕跡は何もない。その日の朝、豊田亨は、中目黒駅から日比谷線に乗り、恵比寿駅近くで車両の床においたサリン入りナイロン袋ビニール袋をビニール傘の先端で穴を空けた。漏出したサリンは、車両内に蔓延し、神谷町駅付近だ多数の死傷者が発生し、霞ヶ関で車両の運行を中止した。
 
 ”豊田亨。1968年1月23日生まれ。オウム真理教「科学技術省」次官。東京大学理学部物理学科卒、同大学院修士課程修了。専攻は素粒子論。1992年4月、同大学院博士課程進学直後に「出家」した。”
                                                            (p13)
  豊田亨は、地下鉄サリン事件の実行犯の一人である。現代音楽の作曲家であり、指揮者である著者の伊東乾は、東京大学で素粒子論を専攻し、豊田と同じ道を歩んでいたが、豊田は、オウム真理教の信者として出家した頃に、伊東達の前から姿を消す。
 サリン事件をはじめとする一連の犯罪を実行したオウム真理教の信者の幹部には、豊田のように高学歴な者が多くいた。医者もいたし、弁護士もいた。彼らが、何故に、荒唐無稽ともいえる宗教を信じ、ある意味では馬鹿馬鹿しいともいえる犯罪を犯したのかは、今をもって解明されていない。世間というより、マス・メディアという方が正しいのだろうが、裁判があたかもその解明をする場であるかのように報道をしていた。
 そして、麻原の裁判においての弁護側と裁判所との確執、行き違いが、その混迷の度合いを一層深めただけで、彼らの引き起こした一連の事件が何であったのかについては解明されることはなかった。
 伊東は、地下鉄日比谷線に乗り、麻原らが籠もっていたサティアンのあった山梨の富士ケ嶺の現場を訪れ、オウム真理教に傾斜していった青年たちの精神の軌跡を追っていく。
 東大の助教授となった伊東は、犯罪者として裁かれている豊田が歩んだ道が、自分が歩んでいた道とは重なりあっていて、人生の偶然ともいえるほんの少しことが、二人を大きく分けたにすぎないとする。
 豊田らが何故に、オウム真理教に惹きつかれていったのか。麻原らの逮捕後も、多くの若者達がオウム真理教の信者であり続けるのは何故なのか。
 伊東は、獄中にいる豊田に対し、若者達が同じ過ちを繰り返さないためにも、豊田がどうして、このような事件を引き起こすにいたったのかを問い続ける。
 この本は、死刑判決を受けた豊田に対し、二度とこのような事件を起こすことのないように、豊田自身の自己の精神の軌跡を明かすことこそ、罪の償いとなるのだと語り続けるとともに、裁判所に対し、死刑により、社会から豊田を抹殺するのではなく、豊田を生かして、罪を償わせることが大事なことではないかと問いかけているのである。
 
 そもそも、裁判という手続によって、このような犯罪の解明がなされるのかというと、不可能に近い。刑事裁判というのは、犯罪事実の有無を立証の場であって、その動機、原因等についても、犯罪事実の有無、被告人の情状に関するもののみが俎上に乗せられるにすぎない。検察側は、圧倒的な蒐集力をもって集めた証拠から、自己に有利な証拠を提示していき、不利な証拠を開示することは極めて少ない。そして、検事、弁護士、裁判官の中で、高学歴の信者達が何故にこのような犯罪を犯したかということに関心をもち、解明しようとするだけの探求心と想像力があるのかというと、否定的にならざるを得ないし、裁判が真実を明らかにするかというと、犯罪事実を明らかにするという点では正しくても、動機の解明という点では、世間が理解しやすい構図を描いて足れりとし、それ以上の複雑な真実の解明をすることはない。そういう意味では、裁判はフィクションといわざるをえない存在である。

 ”真実の解明。それは「裁判において適切な量刑を定め、社会が『妥当』と認める判決に過不足のない『真実』の解明であった、若者たちの心の深層に蠢く「司法の範疇」から外れることが、法廷で問われることは一切ない。騙され、拉致された罪の重さはどうやって測ればよいのだろう。誰もその答えを知らない。
 裁判を、全面的な「真実の解明」だと、一般の人間ほとんどが思いこんでいる。実際は「立件可能」と判断された、ごく一部のケースについて、その「量刑」を確定できるだけの真実しか明らかにしない。だから、「氷山の一角」よりもっと少ししか、物事は明らかにならない。ほとんどすべては闇の闇に消えてゆく。”    (p221)

 伊東は、このような裁判手続に異議を唱える。社会から逸脱した若者たちを、対岸の火事視して、葬り去り、忘却しようとする社会に対し、警鐘をならす。秀才とされ、まじめに生きてきた若者たちが、ある日突然、陥穽にはまってしまった理由を解明し、二度と同じことを起こさないようにすることを忘れてはならないとしている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年12月 8日 (金)

『ヤクザが消滅しない理由』 

○2006年12月8日(金)

  『ヤクザが消滅しない理由』   デイビッド・E・カプラン アレック・デュプロ 不空社

  この本の副題に「江戸時代から今日までヤクザビジネスの正体」にあるように、2人のアメリカ人ジャーナリストは、日本の社会から、ヤクザが消滅しない理由を 日本のヤクザの歴史を通して解き明かしている。 現在でも、政治家、経営者、スポーツ選手そして芸能人らとヤクザとの関係が時折問題となる。文字通り、時折、表面化するに過ぎないので、ほんの偶発的な事件と、捉えがちであるが、この本は、日本社会に構造的に存在するヤクザ、右翼、政治家のもたれあいの構造をヤクザが生まれた江戸時代から今日に至るまで、ヤクザと右翼や政治家が相互に利用しあっていた歴史を概観する。 ここに挙げられる事件やエピソードの多くは、新聞や雑誌等のメディアで報じられたもので、私の記憶の底にもあるものが多々あるのだが、通史的に、整理されているこの本を読むと、あらためて、ヤクザが日本社会に根をおろし、消滅しない理由が理解できる。とりわけ、民主化された戦後において、ヤクザの世界が強大な力をもつに至った経緯は、是非とも知っておくべきことである。 そういった意味では、この本は、日本の戦後史ともいえる。 ”日本では一〇万人のヤクザが活動、二五〇〇の「一家」や連合にきちんと整理されて。一方、日本の二倍もの人口を持つアメリカでは、司法省が見積もっている組織メンバーはたったの二万人。”(P9)  1976年当時のデータであり、正規のヤクザというものまおかしな表現だが、数的には構成員の数は減っていると思われるが、その周辺には、企業舎弟といわれるような企業をかくれみのとした活動もあり、闇の社会と企業の関係も灰色のものも多々存在し、時折、事件の影に彼らの存在が見え隠れしている。  ”戦後数多くの人物が黒幕となったが、もっとも有名なのは全員が巣鴨拘置所の元住人だったA級戦犯トリオ、児玉誉志夫、笹川良一、岸信介であろう。ともに戦前の超国家主義者であるこれら三人の人物は、右翼を時代の流れに即応したものに変え、実業界や与党・自民党を動かすのに利用した。”(p109)  ”満州時代の岸岸の仲間たちの多くが岸の世話で官職についていた。五七年から六〇年の三年間に、岸は自民党内で極右の立場を強め、憲法への反感をあおり続けていった。”(p116)  60年安保の時代も、70年安保の時代も遠い昔となり、ロッキード事件も記憶の彼方に沈みつつある。 この本を読みつつ、現在の日本、そして我々の生活が、日本の戦後史の一画を担っていているのだということを改めて認識させられた。 ”朝鮮(韓国)人と日本人はいまでもはげしい敵愾心を持ち続けており、それは少なくtも、1985年に玄洋社の社員が朝鮮の王妃を暗殺したときにまでさかのぼることができる。この事件が、朝鮮侵略を東京に命じさせる口実になった。そして日本人たちは、連合国軍に敗れるまでこの地を立ち去ろうとしなかった。” (p357) 日本の伝統といわれるものの多くは、明治から昭和にかけて形作られてきているのだが、それが、あたかも古来、脈々としたものであるかのような錯覚が生じている。 日本と朝鮮の関係も、豊臣秀吉の朝鮮侵攻にさかのぼる必要があるのかもしれない。秀吉が朝鮮に侵攻したことは歴史の教科書で覚えたが、侵攻した理由について何が書いてあったのかよく覚えていない。  ”覚せい剤を発見したのは日本の科学者であるとされている。その結果、日本人は50年間にわたってドラッグ問題に耐えてきた。 「日本は覚せい剤を必要とするタイプの社会なのだ」と、東京生活が長いある人物は述べた。 「生活は単調なのだが、ペースはとても速い。それで人々は生活を継続するため、覚せい剤を使用するのだ」 (p382) ここまでいわれると、はてなという気分になってくる。ただ、兵隊の志気を鼓舞するために、日本の軍隊が覚せい剤の使用を勧めていた。ヘロイン等の麻薬に比して、覚せい剤の使用に対する違法性の意識が薄いのは一般的に常用されていた伝統がもたらしたといえるのかもしれない。 細部は別として、著者が指摘するヤクザ、右翼、占領当時の米軍を含む政治家たちのもたれ合いの構図がみえてくる。そして、現在もまだ、その構図を引きずり続けている。 戦後体制の一掃を唱えて、憲法改正を使命とする首相は、祖父の岸信介の悲願を実現したいとしている。優等生の顔をして、無邪気に話す首相のもつ歴史感がどこにあるのか見えないだけに、憲法の改正は戦後体制の固定化に思えてしかたがないのだが、どうであろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年12月 4日 (月)

『エッシャーに魅せられた男たち』

○2006年12月4日(月)
   『エッシャーに魅せられた男たち』野地秩嘉 知恵の森文庫

 現在、渋谷のthe Bunkamura ザ・ミュージアムで、『スーパー・エッシャー展』が開かれている。
 この本は、無名の画家であったエッシャーに魅かれた3人の男たちの物語である。

 デザイナーの松田光弘とともに、1970年代一世を風靡したファッションブランド「二コル」を立ち上げた甲賀は、まだ、評価の確立していないエッシャーのコレクションを7億円買い、日本でエッシャー展を開き、今日のエッシャー人気の源を作った。甲賀にエッシャー・コレクションの購入を持ちかけた新藤信は無名であったエッシャー展を日本で開くことに奔走した。
 
 日本のメディアで初めてエッシャーを紹介したのは少年マガジンであった。
 エッシャーという名前を聞けば、だまし絵と連想する。名前を知らなくても、絵を見たことがあるとする人も多いであろうが、1968年の8月から12月にかけて、少年マガジンの扉ページにエッシャーの絵が登場したということを知るものがどれだけいるであろうか。
 この頃に、エッシャーの絵を知る者は少なかった。美術の専門家も、こどもだましの絵といった程度の認識しかなかった。エッシャーに目をつけ、少年マガジンのグラビアに掲載したのが大伴昌治である。
 少年マガジンの表紙や特集ページのグラビアの構成、編集をしていたフリーランスの編集者の大伴は、子供には難しいとお蔵入りとなっていた「ウルトラQ」を世に出し、「怪獣大図解」を作るなど、今でも、マニアには伝説的な存在として大伴の名前が登場している。
 私は大伴に会ったことはないが、私の大学の推理小説同好会に所属していたので、OBから、大伴の話をしばしば聞かされている。
 大伴は、1973年、日本推理作家協会の新年会の席で倒れ、急逝する。36歳であった。大伴の思いで話しに、必ず登場するのが、墓参りをかかさないというご母堂のことである。この本の後書きに、94歳のご母堂が健在であると記されている。
 この本を書いた野地秩嘉もまた、エッシャーに魅せられていた男の一人であることが、この後書きからも読みとることができる。

 エッシャーという名前からふと手にしたこの本であるが、思いもかけず、大伴も名前を見つけたことも嬉しかったが、エッシャーという一人の画家をめぐっての3人の日本人の人生を共有できたという感興にひたった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年12月 2日 (土)

 ひらいたかこ展「mystery before christmas」

○2006年12月2日(金)
    ひらいたかこ展「mystery before christmas」
 
 ひらいたかこさんの個展「mystery before christmas」を見に、飯田橋にある「パペットハウス・ギャラリー」に出かけた。
 飯田橋の駅の近くの小路に入ると、右手にギャラリーがある。中に、入ると、紙や布で作られた立体の造形が、10個近く並んでいる。
 階段状に折ってある紙にトランプが舞っていたり、尖った鼻のピエロが黒い帽子のひさしに座ったりなど、ちょっと見には怖そうであるが、よく見ると愛らしい顔の人や動物の顔が並んでいて、それぞれに、ミステリアスな趣向が施されいる。壁にも、絵がかかっている。
 この造形を撮った写真がミステリー専門誌「ミステリーズ」の表紙絵に使われいるので、ミステリー・ファンにとってはなじみのある造形なのだが、実際に現物を見ると、写真とはまた違う印象である。写真では、背景の色遣いの工夫や柔らかいライティングに使われているからであろう。
 この文章を見ながら、ギャラリーが購入した2種類のポスト・カードを改めて眺めていたら、撮影をしたカメラマンとして2人の名前が印刷されていることに気がついた。Ito TakashiとKojima Atsushiの2人である。ひとことでいえば、Ito氏の作品はファンタスティックで、Kojima氏のはミステリアスな雰囲気である。題材の違いによるイマジネーションの違いかもしれないし、カメラマンの感性の違いなのであろうか、作者であるひらいさんの意図がどの程度でているのであろうかなどと、想像していると、興趣がさらにわいてきた。

 ギャラリーには、ひらいさんのパートナーの磯田さんもおられた。
 ひらいさんも、磯田さんも、初対面であるが、吉祥寺にあるミステリ専門店「トリック+トラップ」の戸川さんから、お二人の話を聞いていたので、初対面の気がしなかった。
 ひらいさんのクリスティの絵本は、「トリック+トラップ」で買い、戸川さんを通じてサインをもらっていた。
 磯田さんは、著名人の書斎を訪れ、その書斎の詳細な様子を凝った絵と文でなる「書斎曼陀羅」という本を出している。4-5年前のことであろうか、この「書斎曼陀羅」を、花巻温泉にある老舗の旅館のお土産売り場で買っていた。盛岡の出張の帰り、温泉にでも行ってみようかと思い立って、泊った旅館であった。持っていた本も読み終わり、手持ち無沙汰になっていたこともあったが、この本が何故、温泉旅館に置いてあるのだろうかと、思っていた。
 磯田さんに、その話をすると、ひらいさんと一緒に、宮沢賢治の取材に行ったおり、旅館の女将と親しくなり、その後、おつきあいが続いているとのこと。ただ、磯田さんの本が売り場に置いてあるということは知らなかったという。
 他愛もないことだが、これも縁というものであろうか。
 そのような話をしているところに、東京創元社の編集者が数人、ギャラリーに入ってきた。私の名前を聞いたIさんが、先日、私にメールを出したものだという。先日、亡くなった翻訳家の浅羽莢子さんがブログに書いた文章の転載したいので、遺族の了解を得てほしいという連絡をしてきた編集者であった。
 そんなこんなで、ワインをご馳走になり、楽しい時間を過ごさせてもらった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2006年11月 | トップページ | 2007年1月 »