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2007年1月22日 (月)

『フランク・ロイド・ライトとはだれか』

○2007年1月22日(水) 

    『フランク・ロイド・ライトとはだれか』 谷川正己 王国社

 先日、目白にある重要文化財の木造建物『明日館』を訪れた。 明日館に併設されたショップの棚に、『フランク・ロイド・ライトとはだれか』と題する本が置かれていたい。白い表紙カバーの中央にあけられた楕円形の穴から、フランク・ロイド・ライトとおぼしき男の顔がこちらをみている。カバーを取ると、ベレー帽にチェックのマフラーをしたコート姿のライトの全身写真となっている。菊池信義の装幀であった。 ライトには関心があったが、日本で帝国ホテルや明日館を設計をしたアメリカの建築家という程度の知識しかなった。 20年ほど前のことであろうか、アトリウム式のホテルを見学しながら、アトランタを訪れるという旅をしたことがある。数人の設計士との楽しい旅であったが、シカゴの周辺にあるライトの設計になる住宅があり、次はそこに行こうかという話があった。結局、実現することはなかった。 アメリカで見たライトの建物は、グッゲンハイム美術館だけであったが、ライトという名前には親近感があった。日本人によく知られる外国人の建築家といえば帝国ホテルを設計したライトということになろう。 先日、ライトの設計とされる明日館を見たのは初めてであったが、ライトを師とする遠藤新により設計された東久留米にある自由学園の建物群を何度か観ているので、ライトの設計した木造建物には既視感があった。  ライトは、1867年に生まれ、1959年、91歳で他界した。800件を超える建物の設計をし、現実に建築された建物は400ほどだという。そして、ライトの活動は、1910年までの第一黄金期と1936年の第二黄金期、そして、その間の1911年から1935年の25年間を不毛、失われた時代と区分されている。 20代半ばで、ライトは数多くの住宅の設計に携わり、シカゴの近くに傑作といわれる住宅を残していたが、1910年顧客の一人であるチェニー夫人と恋仲になり、妻子を捨てて、ヨーロッパに駆け落ちをしてしまったために、シカゴ周辺の多くの顧客を失ってしまう。 アメリカに戻り、ウィスコンシン州で新生活を始めたライトは、建築家として再起しようとしたが、依頼がなかった。そこで、ライトは建築家を育てる学校タリアセンを設立した。しかし、タリアセンは、二度にわたる火災にあう。そして、狂人の召使いが建物に放火し、建物から逃げてきた人々を斧で襲い、最愛のチェニー夫人も殺されるという事件が起きる。この日、ライトは、建築の現場に出かけていて難を逃れた。 ライトは、1936年、滝の上に長く張り出したバルコニーが特徴的であるペンシルバニアにあるカウフマン邸(落水荘といわれている。)を建築したことにより再起し、その後グッゲンハイム美術館などの建物を建築するなど華々しい業績をあげる。この時代が第二黄金期とされる。  ライトが帝国ホテルを設計するために、日本を訪れたのは、第一黄金期と第二黄金期に挟まれた「失われた時代」、ライトにとって暗黒の時期であった。 谷川正己の『フランク・ロイド・ライトとはだれか』は、ライトとの来日を軸に、ライトとは何者であるかに迫っていく。 ライトの自伝には、微妙な誤記があったり、触れられていないことがあるという。それは、意識的にか、無意識的になされたものかは判然としないが、ライト自身がいつもスターのように振る舞いたいと願っていたことによるものではないかという。 谷川は、事実を丁寧に掘り起こすことによりライトに関する誤った風説を正すとともに、新たな事実を明らかにしていく。 ライトが日本美術や日本建築に関心を抱いたのは1893年にシカゴで開かれた万国博覧会であり、ライトの勤めた設計事務所のシルスビーの日本美術の蒐集品をみたことによる。万国博の日本館には宇治の平等院鳳凰殿を原型とした日本建築があった。日本館鳳凰殿は、三つの棟がわたり廊下で連結され、中央棟の左右対象の位置に北棟と南棟が配置されていた。ライトの創案とされている異なる目的を建物を廊下で連結する複核プランミが創始したという初めて接した日本建築である。 明日舘も、中央棟を挟んでコの字の形に左右の棟が向かい合っている。  帝国ホテルは、関東大震災を無傷で生き残ったという言い伝えがあった。1967年、帝国ホテルの建て替え計画が浮上したときにも、建て替え反対の理由の一つとされていた。しかし、この言説には、震災により崩壊しなかった帝国ホテルについて、ライトが耐震性を誇示したことによるもので、帝国ホテルもまた震災により多大な被害を受けていたという。 そして、帝国ホテルの最初の設計者は下田菊太郎というアメリカ帰りの設計者であったという。1911年、下田は略設計図を提出したが、その後の経緯は定かではないが、ライトに変更となってしまった。下田は、ライトの設計が下田の計画案の盗作ではないかとして、帝国ホテル側と係争になったりもしている。  明日館は、1997年に国の重要文化財に指定された。指定を受けた建物には、ライトの設計した中央棟、西教室棟、東教室棟の他に、道路を隔てた位置にある講堂も含まれているが、講堂はライトの弟子の遠藤新の設計である。先日の羽仁さんのコンサートが開かれたのはこの講堂である。明日館と渾然一体となった講堂もまた、ライトの意図を損ねるものではないとして、講堂も含む建物群が重要文化財に指定された。  この原稿を書いているときに、昨年、話題になった「伊藤若沖展」は、ジョー・プライスの蒐集によるもであるが、プライスはライトと親交があり、プライスはライトの影響を受けて日本美術に関心をもったのではないかと、梅原猛が書いていた。日本とアメリカの芸術が輻輳していることを想像するだけでも興趣がそそられてくる。 

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