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2007年3月25日 (日)

『ロング・グッドバイ』

○2007年3月25日
    『ロング・グッドバイ』  レイモンド・チャンドラー 村上春樹訳 早川書房

 レイモンド・チャンドラーの『The Long goodbye』が米国で出版されたのは、1953年のことである。清水俊二訳の『長いお別れ』が、早川ポケット・ミステリ・シリーズとして刊行されたのは1958年のことである。
 清水訳の『長いお別れ』は、長年ハードボイルド・ミステリ・ファンのバイブルとして親しまれていた。
 
 それから、半世紀たった今、村上春樹の新訳『ロング・グッドバイ』が登場した。

 銀座通りを仕事先に向かって急いでいると、教文館書店の店頭に、黄色の背、赤の表紙に拳銃が描かれた派手なジャケットの本が並んでいた。『ロング・グッドバイ』であった。約束の時間に遅れないようにと思いながら、購入しようと手に取ったが、表紙の左上に傷がついていてる。平台に積まれた本を何冊か取り出しても、同じ傷がついている。よく見ると、その傷もまた、ジャケット・デザインであることに気がついた。
 古いペーパーバックの表紙を模したものらしく、表紙の傷がそのままジャケットになっているのである。

 村上が後書で書いているように、ここでも、清水訳を『長いお別れ』といい、村上訳を『ロング・グッドバイ』ということにする。

 正直なところ、『ロング・グッドバイ』を読み通すのに手こずった。冒頭の数ページにいたっては、すんなり小説の世界に入り込めず、何度も、読み返してしまった。このところの仕事の疲れもあって、集中力にかけていたこともあるのだが、『長いお別れ』の冒頭の魅力的な出だしと違うなという印象が大きかった。
 実際に読み比べてみると、『長いお別れ』の方が古さが目立つのだが、口当たりがいいのである。原文と照らし合わせたわけではないが、『ロング・グッドバイ』の方が教科書的な訳で、堅いなという気がした。きちっと訳そうという気負いのせいだろうか。

 中ほどに、読み進むにつれて、小説の世界に入り込むことができてきたが、『長いお別れ』のフィリップ・マーロウ像と『ロング・グッドバイ』のそれとは何となく、違ってみえるというより、マーロウのイメージが湧いてこないでのである。
 読者である私の方に、マーロウというヒーローに既視感を持ってしまっているせいなのかもしれない。

 終盤になって、マーロウ像が次第に明らかになってくるあたりで、俄然、面白くなってくる。
 私の好きなマーロウの科白は、次のように訳されている。

 「彼女に、自分自身を静かにじっくりと見つめてもらいたかったのさ。そのあとどのような行動に出るか、それは本人の問題だ。私は一人の男の無実を晴らしたかったし、そのための手段の是非までかまっちゃいられなかった。誰に何と言われたようとな。私を懲らしめたいと思うのなら好きにすればいい。逃げ隠れはしない。ずっと、ここにいる」
                      (『ロング・グッドバイ』p473)

 「ぼくが彼女に望んでいたことは、しずかに自分を見つめてもらうことだった。彼女がどんな方法で解決をはかろうと、ぼくの知ったことじゃない。ぼくはただ、ある男の無実の罪をはらしたかった。そのためなら、どんなことでもするつもりだったし、いまだって、その気持ちに変わりはない。逃げ隠れはしないから、いつでも好きなようにしてくれ」
                      (『長いお別れ』p327)

 「わたし」を使うか、「ぼく」とするのか、ここらあたりでも、マーロウ像が変わってくる。訳書よりも、原書を読まなければという人たちもいる。それも一理あるが、原書で読んでも、語彙のもつ意味を理解できていなければ、表面上の筋を追うだけになる。
 新訳の登場により、旧訳、原書と比較することの楽しみができた。

 村上のあとがき「準古典小説としての『ロング・グッドバイ』」も見逃せない。

 村上は、「フィリップ・マーロウという存在を確立し、自我意識というくびに代わる有効な「仮説システム」を雄弁に立ち上げることによって、チャドラーは近代文学のおちいりがちな袋小路を脱するためのルートを、ミステリというサブ・ジャンルの中で個人的に発見し、その普遍的な可能性を世界に提示することに成功した」とする。
 すなわち、チャンドラーは、「正確に綿密に自らの文体に固執することによって、自らの生身をどこかべつの場所にひっそりと隠匿しようと試みてきた(ように見える)」として、村上は、「作者レイモンド・チャンドラーその人の謎めいた姿勢に、そのまま重なってくるのではないかと、僕には思えるのだ」という。
 そして、村上は、『ロング・グッドバイ』は、スコット・フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』を下書きにしているのではないかとする。
 村上は、昨年『グレート・ギャツビー』の新訳を刊行しているが、この指摘も興味深いところである。
 そういえば、テリー・レノックスの最後の場面は、ヘミングウェイの短編『殺人者』を思わせる。
 こうした思いに取り憑かれると、あれを読まねば、これを読まねばとの焦燥感に陥ってきて仕方がない。 

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2007年3月 7日 (水)

 『本業失格』 

○2007年3月7日(水)
       『本業失格』 松浦弥太郎 集英社文庫

   南青山にある古書店「カウ・ブックス」で、和田誠の『倫敦巴里』を衝動買いしてしまった。初版は、1977年とあるが、購入したのは、9版で1980年発行となっている。
 和田誠が雑誌『話の特集』などに書いていたパロディ風の絵や文章をまとめたものである。ページを開くと、「殺しの手帖」とあり、手書きのどくろマークのラベルを貼ったビンが並んでいる。次のページには、「これはあなたの手帖です」「この中 どれか 一つ二つは すぐ今日 あなたの殺しに立ち」「いつか あなたの殺し方を変えてしまう」とあり、左のページには、拳銃の写真が載り、リヴォルヴァー拳銃の商品テストの結果が描かれている。「毒入りそうざい」の作り方があり、「殺しの中で考える」と殺しの考察篇などもある。
 『暮らしの手帖』のパロディである。花森安治が創刊したこの雑誌は、戦後の貧しい生活を脱し、豊かな生活を確実なものにしたいとする人たちを読者としていた。花森安治のパーソナリティと厳正に、商品テストをするためには、雑誌の刊行に不可欠な収入源である広告を掲載しないとする『暮らしの手帖』のポリシーは、社会的な存在感と影響力をもっていた。
 「殺しの手帖」が『話の特集』に掲載されたのは1966年のことである。
 「パロディって、本当に権威を引きずり下ろすくらいの力があるものをそうよぶんじゃないかと思うんだ。それに比べれば俺のやっていることなんか、やっぱりモジリ程度なんだなあ。」と、和田誠は『倫敦巴里』の後書きでいっている。
 『暮らしの手帖』は、1966年当時、商品テストだけではなく、日常の生活の暮らしを通して、生き方を問う雑誌として、カリスマ的な権威をもっていた。それゆえに、「殺しの手帖」は、和田誠らしい遊び心に富んだ『暮らしの手帖』のパロディとなっていた。
 
 バブル、そして、バブル崩壊と時代は変わり、いつしか、広告料を収入源とする無償のインターネット情報や無料で配布される雑誌がもてはやされるようになり、雑誌は販売部数を激減してきた。『暮らしの手帖』もしかりで、書店でも見かけることが少なくなってきた。
 広告料に依存するネットや雑誌の情報がまっとうで、公正なものであり続けることは、あり得ないということは少し考えてみればわかるのに、である。

 松浦弥太郎の『本業失格』を読み始めたその日、カウブックスで手に取った和田の『倫敦巴里』との出会うという偶然、奇縁の面白さ、これこそ、本との出会いだなと思いながら、『倫敦巴里』を衝動的に買ってしまった。

 カウブックスを経営している松浦は、昨年の10月に、『暮らしの手帖』の編集長になった。
 カウブックスの本店は中目黒にあるのだが、まだ、行ったことはない。事務所の近くにある南青山にある支店は、カフェのレジの横にある2坪もあるかないかの小さな古書店である。植草甚一、小林泰彦、久保田二郎など、私好みの本が並んでいるので、ランチを食べた帰りにぶらっと寄る。
 ある日、書棚に並んでいた『くちぶえサンドイッチ』という題の松浦のエッセイ集が気になって購入した。レジにいた店員から、中目黒にあるカウブックスの本店は面白いですよといわれて3年になる。
 松浦は、18歳のときに、アメリカに渡り、書店めぐりをしたことから、本の面白さにとりつかれ、その後、マンションの一室で古書店を始め、トラックで本を販売する移動書店をし、2002年にカウブックスを開業した。
 『本業失格』は、松浦が、1997年頃から2000年にかけて書いたエッセイ集である。アメリカや神田の古書店の話がでてくるのだが、松浦は本の面白さにとりつかれているだけではなく、本をとりまく人たちとのつながりを楽しんでる様子が伝わってくる。
 ニューヨークの古書店を訪れたときには、ポラロイドカメラで店主の写真を撮っては、店主にあげたり、奥只見にある「たもかぶ本の街」に入り込んで本をあさる話などと、面白い話が、軽妙に語られている。
 
 しかし、松浦は、古書マニアが講じて古本屋になったのではない。
 松浦は、「僕は洋書和書問わず、世界中から最低で最高の本を集めて売ることに関して誰にも負けない」と明言するように、カウブックスに並んでいる本は、ちょっとポップで、サブジャンルぽいながらも、筋目正しい生活感に溢れる本が並んでいる。
 『暮らしの手帖』の編集長になった著者が『本業失格』というのも、キャッチを使うことに奇異を感じる向きがあるかもしれない。本業以外に面白いことがたくさんあるのだから、本業にとらわれない生き方があるのだという著者のメッセージであり、『暮らしの手帖』編集長の編集方針の宣言ととれる。
 そういう意味では、松浦の『くちぶえサンドイッチ』は、『本業失格』よりも、生活感覚の面白さに溢れていて、松浦の些事にとらわれない生活感覚溢れた楽しいエッセイ集である。
 

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