« 『制服捜査』 | トップページ | 『氷結の森』 »

2007年4月30日 (月)

『市民ヴィンス』 

○2007年4月30日(月)  

     『市民ヴィンス』 ジェス・ウオルター 早川文庫  

アメリカには、証人保護プログラムと呼ばれる制度がある。マフィアの犯罪を裏付けるために刑事事件の証人になると、協力者は、罪を免れるとともに、報復をされないように、新たな土地で、新しい身元、名前で生活を始めることができる。 マフィアは仲間を売る裏切り者は許さない。草の根をわけても、捜し出し、始末しようとする。 証人保護プログラムを描いた映画やミステリは、シリアスなサスペンスに溢れるものから、ヨーロッパで生活を始めたがいいが、マフィアの性癖が抜けないことによる起きる大騒動のようなドタバタ喜劇調のものまで数多くある。 ジェス・ウオルターの『市民ヴィンス』は、ワシントン州のスポーケンというしがない街で、ヴィンス・キャムデンという新しい名前で、生活を始めた男の物語である。 「ある日、死んだ知人の数は、生きている知人の数を上まわる。」 (p9)  物語は、1980年10月28日、ヴィンスが死んだ知人の数にとらわれるところから始まる。ヴィンスは、ドーナッツ屋の雇われ店長として、ドーナッツを作る仕事をしているのだが、昔の稼業を忘れずに、クレジットカードの偽造の仕事を副業として行っている。但し、目立つようなことは一切しないようにしている。 1980年10月は、大統領再選を目指すカーターとレーガンが選挙戦を行っている頃である。『市民ヴィンス』が書かれたのは2005年である。読み始め、何故、1980年という時代設定にしたのだろうかという疑問がうきまとったのだが、次第に、カーターとレーガンが争った大統領選の意味がじわっとつきまとってくる。 ヴィンスは、新しい身分のもとで、初めて選挙権を行使する市民になる実感をもつようになる。新しい街での平凡な生活をして、全う市民となるために、大統領として、カーターを選ぶのか、レーガンを選ぶのかを考える。  ”ときどきわからなく。国民とは難なのか。善良で、賢く、正直で、慈悲深い者を嫌う国民とは、いったい何なのか。” ”いいですか。あなたは国民に自分たちの弱さを思い出させるのです。それが、問題なのです。” (p317) 大統領選の争点は、イランの米大使館に人質となっているアメリカ人の救出である。強攻策を主張するレーガンは、カーターを軟弱であるとする。カーターは、 ヴィンスは、マフィアの殺し屋に命を狙われていることを知り、マフィアとの過去を清算をしたいと考え、ニューヨークに出ていくのだが、そこで、思いがけないことを知る。  レーガンとの闘いを前にして、カーターは自らの政治的手腕を誇示しようとはせず、誠実に生きる道を選ぶ。 ”部屋に戻り、ワシントンに戻ることを告げよう。今日入っている予定はすべてキャンセルする。剣を抜くこともしなければ、勝利を宣言することもしない。真実を告げるのだ。われわれはまだそこまで達していない。” (321)  ヴィンスは、最後にこういう。 ”いいか。おれはなんの役にもたっていない人間だ。36歳にもなるのに、ドーナッツ屋以外では働いたこともない。でも、おれは投票をした。おれの一票はみんなの票と同じように数えられる。ほかの者にはどううでもいいことかもしれないが、おれにとっては大きな意味を持つことだ。” (p441) 1980年の大統領選挙で、レーガンが選ばれたのは、四年前の大統領選でブッシュが選ばれたことと重なってくる。イランとイラク、国を異にしているが、1980年の状況と今日の状況は似ている。どうでもいいような一票が、世界を大きく動かしていることを、この小説は静かに語りかけてきてくる。 派手ではないこのようなミステリがアメリカ探偵作家クラブ賞を受賞したということを知ると、アメリカも捨てたものではないと思ってしまう。

|

« 『制服捜査』 | トップページ | 『氷結の森』 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 『市民ヴィンス』 :

« 『制服捜査』 | トップページ | 『氷結の森』 »