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2007年9月24日 (月)

『新編 戦後翻訳風雲録』

○2007年9月24日(火)
   『新編 戦後翻訳風雲録』宮田昇 みすず書房

 翻訳ミステリが好きな人にはお奨めの本である。
 翻訳家を志望する若い人が多い今日この頃であるが、小説の翻訳を生業とする人が登場したのは、戦後のことである。戦前は大学の研究者や小説家の副業であったが、戦後になって、プロの翻訳家が登場するようになった。もしかすると、戦前・戦後の戦争とは、第二次世界大戦のことであると注釈をいれておく必要があるかもしれないというほど、遠い時代になってしまったが、翻訳で生活ができるという時代は、アメリカの日本占領を契機とする大衆消費社会の到来により、ミステリやSF小説のようなエンターテイメント小説が大衆に広く売れるようになってきたことによってもたらされたものである。
 
 宮田昇は、1928年生まれであるから、まもなく80歳になる。戦後、翻訳出版を始めたころの早川書房の編集者をし、その後、翻訳権エージェントに転じた。戦後の翻訳の世界の裏方として、長年、翻訳出版社や翻訳家の世界に生きる人たちを見つめ続けた宮田は、自分が知ることを書き残さなければならないとのいわば使命感のような衝動で書かれたものである。
 本書は、新編とあるように、2000年に出た『戦後「翻訳」風雲録~翻訳者が神々だった時代』を大幅に改訂を加えたものである。具体的には、早川書房の創立者である早川清の部分を半分にし、映画字幕の第一人者であった清水俊二を省き、三田村裕、厚木淳、新庄哲夫松田銑、桑名一央などの翻訳者の文章がつき加えられ、まさしく、「戦後の翻訳風雲録」という題名にふさわしい内容となっている。
 
 「荒地」の詩人であった中桐雅夫が翻訳したハヤカワ・ポケミスは、文庫化されるまで重版されることはなかった。
 ”ハヤカワ・ポケミスが、早川書房そのものにも、大きな利益をあたえたわけではないことは、それにかかわっただけに充分知っている。しかし、日本のミステリー読者層の拡大定着に貢献しただけでなく、海外のエンターテイメントの翻訳の幅を広げ、結果的に現在の早川書房の基礎をつくったことは確かである。
   それにしては、その翻訳によって大きな恵みを受けた者はごくわずかであることと、中桐のようにミステリーが好きか、あの貧しかった時代の生活の糧として取り組まざるをえなかった翻訳者の多くにさせられた面があることを、忘れてはならないだろう。”
                                                            (p17)

 昭和33年、アントニー・バークリーの『試行錯誤』が早川書房と東京創元社で出版された。前者の翻訳者であった中桐と、後者の鮎川信夫との間にトラブルが生じた。二人は、同人誌「荒地」の仲間であった。鮎川が東京創元社の依頼で『試行錯誤』を翻訳していたことを知りながら、中桐が早川書房に売り込み、鮎川を裏切ったというのであった。

 同じく「荒地」の詩人であった田村隆一は、1998年に亡くなっているが、戦後を代表する詩人と、今でももてはやされているが、宮田の田村評は厳しい。
 ”私は彼が飲んだときに見せる豪快さ、洒脱さとは違い、よくいえば細心、繊細、悪ととれば臆病、小心であるという感想を持っていた”
                                                            (p27)
 田村は、早川書房に籍をおき、編集の仕事をしていた。
 田村の最初の妻は鮎川信夫の妹であったが、離婚をした。田村は、相手がいないにもかかわらず、花嫁のいない披露宴招待状もどきを関係者に配り、祝い金を集めまくって、散財した。予定した結婚式の日が間近となって、さすがの田村も慌てて、早川書房にいた福島正実に相談した。田村の窮状を知り、福島はいとこを紹介し、田村は予定通り披露宴を開くことができたのである。田村は、その後も、離婚、結婚を繰り返し、生涯5度の結婚を繰り返している。

 早川書房のハヤカワ・ポケット・ミステリ(通称ポケミス)は、1956年に、101番として、ミッキー・スピレーンの「大いなる殺人」で始まり、今年、ついに、1800番台が刊行されている。
 ポケ・ミスは、アメリカのペイパーバックを模した判型で、黄色の天地・小口が新鮮であったが、今でも、黄色の天地・小口の本を手にする人を見かけると、何を読んでいるだろうと気になってしかたがない。
 ポケ・ミスの原型は、「B6に巻きを一ついれて三六面取り変形並製にする」という宮田の提案をもとに、早川書房の早川清の義弟であった桜井光雄が考え出したという。

 ポケ・ミスの刊行と平行して、同じ判型の500番台として、「シェーン」や「必死の逃亡者」などの映画化された作品がポケット・ブックとして出ているが、ポケ・ミスの発行の遅れを金融的にカバーするために、絶版となった翻訳書を急遽だしたという。

 私のいた大学の同好会の会長で、医者で推理作家であった木々高太郎の名前も登場する。早川書房は、木々を訳者としたハーバート・ブリーンの『あなたはタバコがやめられる』刊行し、ベストセラーとなるが、この出版は田村が企画し、福島正実が翻訳をしたもので、有名人を翻訳者名とする走りだという。

 大久保康男の下訳を続けた高橋豊、小林信夫の処女作『虚栄の市』のモデルにされた宇野利泰、壮絶な死を選んだ田中融二、編集者として、激しく生きた福島正実が物議を醸し出したSFマガジンの架空匿名座談会「SF界に新風よ吹け!」を巡る話や、倒産した創元社を受けて設立された東京創元社が再建の柱とした『世界推理小説全集』の監修者に江戸川乱歩を迎えるにあたり、乱歩は、東京創元社の厚木淳を同行して、乱歩が監修していたポケミスを刊行している早川書房の早川清社長に会い、「ナイン・テイラーズ」の翻訳権を東京創元社に譲れといった話など、興味深い話が満載である。

 旧作『戦後「翻訳」風雲録~翻訳者が神々だった時代』にも書かれたエピーソードもあり、多々異議のある人たちもいたようだが、翻訳ミステリが好きな人にとっては、スリリングな面白さに満ちている。

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2007年9月21日 (金)

『さよならを言うことは』

○2007年9月21日(金)
  『さよならを言うことは』 ミーガン・アボット 早川PMB

 ”悪女が息づき、情熱に狂い、裏切りが蔓延る、50年代LAチャンドラーの時代が鮮やかに蘇る”

 本の帯に惹かれて、この本を読み出した人は裏切られた思うかもしれない。チャンドラーの世界が鮮やかに蘇るのではなく、50年代を舞台にしたミステリだという程度の惹句にすぎない。
 
 ローラは、早くに両親を亡くし、たった一人の兄ビルを家族として生きてきた。地方検事局の捜査官のビルは、交通事故の相手となったアリスと知り合い、恋に落ち、結婚する。撮影所に勤めていたアリスは、若く、美しく、魅力的であった。
 兄の結婚を祝福しながらも、ローラは、次第に、アリスの過去に疑念を抱くようになる。

 ローラが一人称で語るこの物語は、じれったいほどゆっくり進んでいく。事件も起こりそうで、起こらない。頁の半ばまで進んでいく。アリスへの疑惑は、兄を慕うローラの妄執、嫉妬が生み出す妄想のように思えてくる。

 次第に、読み手である私の方も、最後まで読み通す時間を惜しむ気持ちが沸いてきたが、後半に至り、ローラの一人称でえがくこの作者の狙いが浮かび上がってくる。
 佳品。一般受けはしないだろうが、映像化すると面白そうなミステリである。

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2007年9月18日 (火)

『天使は容赦なく殺す』

○2007年9月1日(水)『天使は容赦なく殺す』 グレッグ・ルッカ 文藝春秋

 グレッグ・ルッカの新シリーズが出たというので、通りかかった大型書店に入り、平台で探したが見つからない。
 まだ、書店にでていないのかなと思いだしたときに、並べられた本に埋もれているのを見つけた。
 風に吹かれた金髪の髪に、アラブ風のコートをまとい、頸にはスカーフをし、拳銃を握った若い女が劇画調に描かれている。後書きによれば、ガン・アクション・コミック『Black Lagoon』で人気の広江礼威の画だという。
 このような装幀にすると若い読者をつかむことができるのだろうかというおじさん風な素朴な思いにとりつかれるのだが、太宰治の代表作「人間失格」の表紙を、漫画「DEATH NOTE」で知られる小畑健のイラストにした集英社文庫の新装版が7万部も売れているという話もあるので、とにかく中味次第と手にとってレジに向かった。
 講談社文庫から出ているグレッグ・ルッカのボディガード、アティカス・コディアックのシリーズは、ハードなテーマを正面に据えたハードなエンターテイメント・ミステリであるが、文藝春秋からでた新シリーズは、英国情報局SISの特務課首席特務官、タラ・チェイスが主人公である。タラの職務は、国外での非合法工作、すなわち暗殺である。
 
 イスラム過激派HUMのテロリストがロンドンの地下鉄の主要な三線に同時に放火し、死者は300名を超えた。イギリスは、報復のため、HUMの宗教指導者ファウドの暗殺を計画する。暗殺を命じられたチェイスは、イエメンのモスクに潜入し、ファウドを殺害する。
 白人女性のチェイスが中東に単身潜入すること自体荒唐無稽な話なのだが、370ページの本の中途の200ページあたりで、チェイスは、あっさりとファウドの暗殺に成功してしまう。
 読み手としては、イエメンに単身で潜入したチェイスが監視の目をかいくぐってモスクに潜入するあたりのサスペンスをじっくり楽しませてもらいたいのだがと思いながら、ページをめくると次なる展開が始まる。
 暗殺の任務に成功したチェイスを待ち受けていたのは、危うい均衡を保っているサウジアラビアと西欧の関係が暗殺により崩壊の危機という冷酷な国際政治の世界であり、チェイスをその皿に載せて差しだそうというのである。
 チェイスを守ろうとする上司クロッカーの存在がいるあたりは、フリーマントルのスマイリー物とはひと味違うところであるが、その展開はやはり、劇画風である。
 
 シリアスなテーマをもつアティカス・コディアック・シリーズは、『耽溺者(ジャンキー)』、『逸脱者』と、主人公の内なるものが外界との軋轢によってかなりぎりぎりの世界にはまり込んできていた。ルッカとしては、劇画風の小説で新味を出そうとしているのだろうが、このシリーズが成功しているかについては、次作『Private War』を読んでの評価となるであろう。

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