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2009年1月19日 (月)

『オリンピックの身代金』

 『オリンピックの身代金』    奥田英朗  角川書店

 「東京オリンピックを知っている?」という会話をしばしばしていた頃がある。20年から30年ほど前のことである。
 アジアで初めてのオリンピックが東京で開催されたのは1964年10月である。高校生のときであった。戦後の貧しい時代を経て、オリンピックを契機にして、東京は大きく変貌した。
 首都高速の1号線が開通したのが、1962年12月である。といっても、最初は、京橋3丁目から海岸までのわずか4kmの道路であったが、羽田空港まで通じたのが1964年の8月であり、オリンピックの開会式に合わせて、10月には、渋谷まで3号線ができている。
 東海道新幹線も、1964年10月に営業を開始している。
 インターネットで、1964年を検索すると、8月に、営団(現在は、東京メトロ)日比谷線が全線開通し、9月にホテルニューオータニ、東京プリンスホテルが開業している。羽田空港にいくモノレールが開業したのも9月のことである。
 三宅坂から渋谷までの青山通りの大幅な道路拡幅工事により、現在の40m道路になったのも、国立競技場がオリンピックのメイン会場とするためであった。

 今、当たり前の風景として、私たちが眺めていたものの多くがこの頃からできたのである。東京オリンピックを知っているのは、当時、小学生であった世代であろうから、もはや、50歳半ばを超えている。日本人の大半は、東京オリンピックを知らない世代である。
 その昔、「東京オリンピックを知っている?」という会話をしていたのは、私たちが、年上の世代から戦争(太平洋戦争)を知らない世代といわれていたことを、下の世代に使用していたに過ぎないかもしれない。
 
 奥田英朗の『オリンピックの身代金』は、1964年、オリンピックの開催に向けて、変貌を遂げようとしている東京を舞台に、その光と影を描いている意欲作である。
 オリンピックの開催を前にした1964年8月、オリンピックの最高警備本部の幕僚長の自宅を狙った爆破事件が発生し、続いて、中野の警察学校が爆破され、警視庁に、「東京オリンピックはいらない 草加次郎」という脅迫状が届けられる。
 「草加次郎」は、1962年から1963年にかけておきた爆破、脅迫など一連の事件で、脅迫者が名乗った名前である。当時、18歳であった吉永小百合にも何回か脅迫状が届いたことでも世間の注目を浴びたが、1978年に時効が成立している。
 この小説は、草加次郎は出てこない。草加次郎の名前を騙って、オリンピックの開催を妨害しようとする東大生の物語である。
 東大生の島崎国男は、秋田の極貧の農村出身である。ある日、出稼ぎ先である東京の工事現場で、兄が亡くなったことを知る。オリンピックのために、突貫工事を余儀なくされる工事現場を訪れた国男は、兄の生活を体験しようと、工事現場で肉体労働を始める。

 「十八で、国男が上京して最初に感じたのは、東京の豊かさというより、自分たちは如何に貧しかったのかということだった。それは劣等感でも義憤でもなく、純粋な驚きだった。社会の格差の現実に呆れ、嗤うしかなかったのだ。」(p55)

 1964年10月10日、青空の下、東京オリンピックの開会式が盛大、滞りなく、開催された。この既定の事実を前提にした小説であるから、国男の狙うオリンピックの身代金が失敗に終わるであろうことは予測されるのだが、どのようなストーリーで、最後までにもっていくのだろうか。
 警察幹部を父親にもちながら、開局まもないテレビ局に勤めている忠男は、父親から「帝大を出てて芸者仕事か」と蔑まれている。
 まだ、デビューまもないビートルズにあこがれている古本屋の娘の良子は、BG生活をしている。一枚のシングルレコードや洋服を買うこと贅沢なことであったが、希望にあふれた生活をしている。
 ちなみに、BG(business girl)は、「女性会社員」のことで、現在では、OL(office lady)い東京オリンピックを前に、週刊誌が、BGは、Bar Girl のことで、売春婦と誤解されるということから、週刊誌がOLという和風英語を提唱し、現在に至っている。
 警視庁の捜査一課の刑事である落合昌夫は出産を間近に控えた妻とともに、千葉にできた公団の団地に新居を構える。
 作者は、国男、忠男、良子、昌夫らの生活を丁寧に描いて、オリンピックを控えた1964年という時代を切り取っていく。章ごとに、時間を前後し、オリンピックの開会式に収斂していくのだが、国男がオリンピックの妨害をしようとする心の軌跡と犯罪計画、警察との対峙が、多角的に、サスペンスフルに描かれている。

 1964年という時代を知るものにとって、様々な思いにかられて、面白い小説なのだが、東京オリンピックを知らない世代にとって、どの程度、面白いかというと、正直、よく分からないというしかない。

 昨年、開かれた北京オリンピックも、遠い昔のことに思えるのだが、中国政府が行ったオリンピック施設・交通網等の整備のために強権を発動した。日本の50年前と思うと、やったことを似たり寄ったりなのかもしれない。

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