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2010年4月30日 (金)

『クリント・イーストウッド―ハリウッド最後の伝説』

2010年4月30日 『クリント・イーストウッド―ハリウッド最後の伝説』
        マーク エリオット 、笹森 みわこ・ 早川 麻百合訳

 日比谷の映画館で、クリント・イーストウッドの『ダーティ・ハリー』(1971年)を見たときの衝撃を今でも覚えている。司法試験に合格した年である。試験が終わって、合格発表の前のときであった。
 
 クリント演じるサンフランシスコ警察のハリー・キャラハンが、のんびりと立ち寄った店で、強盗に遭遇し、向かってくる強盗の車に、マグナム弾を装填した大型拳銃を発砲し、横転させる冒頭のシーン。静から動への転換の鮮やかさは、今、DVDで見ても、惹きつけられる。
 だが、衝撃を受けたのは、中盤、ようやく捉えた犯人が釈放をされてしまうシーンであった。
 さそりと名乗る連続殺人は、14歳の少女を誘拐して生き埋めにし、少量の酸素を送り込んでいる。すぐ20万ドルの身代金をよこさないと殺すとする脅迫状を警察に送ってきた。ハリーは20万ドルを持って、犯人の指定したマリーナに向かい、犯人に襲われてしまうのだが、重傷を負いながらも、スタジアムで犯人を追いつめ、傷を負った男を拷問にかけ、少女を助けるのだが、犯人は、ハリーの逮捕手続が法に従ったものではないとして、釈放されてしまう。

 刑事ドラマで、犯人を逮捕する際に、刑事が犯人に対し、小さな紙切れをみながら、「黙秘権がある。供述は法廷で不利な証拠として用いられることがある。弁護士の立ち会いを求める権利がある。弁護士を依頼する金がなければ、公選弁護人を付けてもらう権利がある。」告げている場面をよくみかける。
 アリゾナ州でのメキシコ移民アーネスト・ミランダによるとされた誘拐・婦女暴行事件(ミランダ対アリゾナ州事件)について、連邦最高裁は1966年、訴訟手続が違法であったとして、原審の有罪判決を破棄して、無罪判決を出した。このときの被告人の名にちなんで、Miranda warning(ミランダ警告)とよばれている。

 凶悪犯であっても、司法の適正手続に反した逮捕であれば釈放される。日本では、このようなことはありえない、犯人は犯人で、手続がどうであろうと、処罰されるべきであるというのが、国民の多くの意識であり、裁判所でも同様である。
 
 司法試験を受けたばかりの私は、その余韻を持ち続けていたこともあって、アメリカではこのような娯楽映画でも、司法の適正手続が浸透しているのだと感じ入ってしまったのである。
 ただ、この映画をこのように理解したのは間違いであった。映画『ダーティ・ハリー』は、銃にものをいわせて、自ら、法を超えた正義を執行するハリー・キャラハンに世間は快哉を叫んだにすぎず、「司法の適正手続」という法の裁きに異を唱えるもので、ちんぴらに妻を殺された男が、夜ごと街にでかけ、無法な男たちに正義の鉄槌をくだすというチャールズ・ブロンソンの映画『狼よさらば』(1974年)と軌を一にする。

 この点について、この本の著者マーク・エリオットは、もう少し、複雑な分析をする。

  ” たしかに、この作品には社会的要素も含まれ、当時の混乱した政治状況を背景にしている。製作が進められたのは、アメリカがベトナム戦争に本格的に介入するきっかけになったトンキン湾事件から十年が経ち、戦争がいよいよ激しさを増したころだった。このころまでにアメリカ国民は戟争に飽き飽きし、「世界の警察官」として君臨するアメリカというライオンのうなりが、切羽詰まって恐怖にかられた悲鳴、あるいは、こけおどしのむなしい叫びに変わることを恐れていた。ベトナム戦争がハリウッド映画で直接描かれるのはこれより何年もあとのことになる。マイケル・チミノの「ディア・ハンター」 (一九七八年)、ハル・アシェピーの「帰郷」 (一九七八年)、フランシス・フォード・コッポラの「地獄の黙示録」 (一九七九年)はすべて、この戦争を振り返る内容だ。しかし、まだ一九七一年の段階で、「ダーティハリー」はアメリカ人の一部に見られる過剰な反公民権勢力、ベトナム戦争支持勢力、そして世界中の反米感情と真正面から向き合っている。記憶に残る「今日のおまえはツイてるか? どうだ、役立たず?」のシーンは、キャラハンが特大の四十四口径マグナムを黒人強盗の顔に突きつけ、正義と法と秩序を守る白人の絶対的権威に対して運と勇気を試すようにおどしつけるものだ。
   このシーンを見て、このセリフを聞いた者は、たとえ歴史的な背景を失ったとしても、その鮮やかな印象を忘れることはない。キャラハン (とアメリカ) の陰湿なサディズムを象徴する、時代を超越した名シーンになった。”(p211)
 
  深読みかなと思いながらも、今、見るとそう思えなくもない。
  しかし、結果として、映画から読めるのにすぎず、この映画に主演したクリント・イーストウッドや監督のドン・シーゲルがここまで考えて作ったとは思えない。面白い映画を作ろうとしてできあがったものが、時代の意識を反映するというエンターテイメント映画のもつ奥深さというほうが正しいであろう。
 
  クリント・イーストウッドは、テレビで放映されていた『ローハイド』から、黒沢明の映画のリメイク『荒野の用心棒』、マカロニ・ウェスタンの白眉ともいえる『夕陽のガンマン』から、最近作の『インビクタス』まで、同時並行で、観てきた俳優であり、監督である。
  『クリント・イーストウッド―ハリウッド最後の伝説』は、クリントの生い立ちから、最近作までのクリント、先妻マギーとの間に1男1女、現在の妻ルイスとの間の1女のほかに、4人の子どものこと、2度にわたり子どもを堕ろさせた愛人ソンドラ・ブロックのことなどのスキャンダルめいた話を、嫌みなく、描いており、クリント・イーストウッドの全体像を俯瞰させてくれる。
 
  ”おそらく、クリント・イーストウッドほど演じる役柄と実像が重なり合うハリウッドスターはいないだろう。DNAの二重らせんを構成する二本の鎖のごとく、スクリーンの中のクリントと実生活のクリントを切り離すことは不可能に近い。あまりに完壁に役におさまるために、どこまでが映画のなかの登場人物で、どこからがそれを演じるひとりの俳優の素顔なのか、境界線はあいまいになる。
   これまで出演、製作、監督のいずれか、あるいはその二つ以上の役割を兼ねてつくり上げてきた作品のなかで、クリント・イーストウッドは三種類の代表的キャラクターを生み出し、繰り返しスクリーンに登場させてきた。第一はセルジオ・レオーネ監督の西部劇三部作、「荒野の用心棒」 「夕陽のガンマン」 「続・夕陽のガンマン 地獄の決斗」 に登場する、秘められた過去をもつミステリアスで寡黙な”名無しの男”だ。それうぃわずかに変化させたキャラクターが「奴らを高く吊るせ」 「アウトロ」にも姿を現わし、少しずつバリエーションを変えながら、「許されざる者」の老ガンマンへと至る。第二の顔は、「ダーティハリー」シリーズのハリー・キャラハン刑事。ニヒルさが持ち味のこの個性的な人物像も、最近の「グラン・トリノ」まで繰り返し描かれている。第三のキャラクターは腕っ節が強く無骨な、いわゆる”レッドネック”タイプの男で、ほかの者なら言葉を使うところで、こぶしに物を言わせる。「ダーティファイター」のファイロ・ベドーがその原型となり、いくつかの作品を経て「ピンク・キャデラック」へと引き継がれていった。
   わずかずつ姿を変えながら変えながらスクリーンに戻ってくるこの三つのキャラクターは、本質的な部分で生身のクリントと結びついている。いずれも究極の一匹狼で、アメリカ映画の伝統的なヒーロー像にはあてはまらない。それまでの映画で”孤高ののヒーロー”としてすぐに思い浮かぶ主人公は、実際には孤独とはいえなかった。(p26)
 
  ”クリント・イーストウッドが演じる映画の中の主人公は、自分以外の何ものも必要としない。相手にするのが残忍な殺し屋であろうと、男を手玉にとる女であろうと(両方が重なる場合も多い)、”名無しの男”に対して顔の見えない敵であろうと、しつこい賞金稼ぎ(最後にはもっとあくどい誰かに倒される)であろうと、相棒のオランウータンであろうと”名無しの男”ダーティハリー、ファイロ・ベドーはつねにひとりで姿を現わし、ひとりで去っていく。女の尻を追いかけることはほとんどないので、ロマンスが生まれることもめったにない。クリント演じるキャラクターが、気が進まないながらも女性とかかわることになる数少ない状況では、その関係は距離を保ち、皮肉に満ち、ロマンチックさのかけらもなく、たいていは親密さが感じられない。
   いわゆるラブストーリーがクリント・イーストウッド映画で重要な要素になることはない。彼の演じる孤独な男は、男女を問わず彼のそばにいたいという者たちの期待に応えはしない。しかし、その姿を見て彼のようになりたいと思う観客の期待は十分に満足させてくれる。そうした役柄を通して、クリントはアメリカ映画の常識に挑み、独自の世界を築き上げてきた。(p28)
 
確かに、クリント・イーストウッドの演じてきた役柄は、孤高のヒーローというよりは、他者からの共感に距離を置き、拒絶している。
孤独であるからこそ、絶えず、手許に女性を置こうとする、そこに愛があるかどうかは分からないのだが・・・
 それゆえにだろうか、クリントは、監督・主演した『許されざる者』で、アカデミー賞監督賞、作品賞を受賞し、『ミリオンダラー・ベイビー』で、2度目のアカデミー作品賞、監督賞を受賞をしたが、未だ、手にすることができないアカデミー主演賞を渇望しているようにみえる。孤独故に、俳優としての自分を確認したいとしているのであろう。

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2010年4月29日 (木)

『ウォーホルの芸術  20世紀を映した鏡』

2010年4月29日 『ウォーホルの芸術  20世紀を映した鏡』 宮下規久朗 (光文社新書)

 アンディ・ウォーホルといえば、キャンベルのスープ缶をただ描いた絵や、マリリン・モンローの顔のアップの絵を思い浮かべる人が多い。
 ウォーホルは、1962年、キャンベルのスープ缶をただそのまま描いた同じような32点の絵の連作で脚光を浴び、アーティストとしてデビューした。画廊には、スーパーの棚に置かれているように、スープ缶が描かれたカンバスを棚に並べて展示したという。
 キャンベルのスープ缶は、1900年に開かれたパリの万国博覧会に出品され、ゴールドメダルを受賞した。そして、スープ缶のラベルの中央に、ゴールドメダルの絵が描かれており、ウォーホルの絵にも、ゴールドメダルが描かれ、「万国博覧会 1900年」の文字が手書きされている。
 ウォーホルがこの絵を描いた当時は、キャンベルのスープ缶は、アメリカ中の食品店の棚に並べられ、庶民が日常的に手にしていた食品である。このスープ缶をモチーフにというよりも、ただ模写しただけの絵がどういうわけか、我々の日常感覚に刺激をあたえ、心の内に、さざ波を起こす。50年以上の絵であるが、今をもって、新鮮である。
 キャンベル缶の絵は、当初はカンバスに油彩で描かれていたが、その後、ウォーホルは、シルクスクリーンの手法を多用し、様々なスープ缶の絵を描いている。
 モンローの絵もそうであるが、ウォーホルの絵は、同じものを反復的に描く、しかも、既存の写真を複製し、具象化し、モノトーン化し、さらに色彩を与えていくなどをしていく。エルヴィスやジャッキー(ジャクリーヌ・ケネディ)、リズ(エリザベス・テイーラー)の写真を原型をとどめる程度にデフォルメしながら、モノトーンにしたり、彩色している。
 有名人ばかりではなく、自殺や交通事故死の現場写真を複製しながら、同様の手法を撮っている。
 このように他人が撮った写真を利用する方法は、著作物の二次利用であるし、肖像権の侵害、モンローやエルヴィスのような有名人であればパブリシティ権の侵害になるし、無名の人であっても、プライバシー侵害になると思うのだが、このようなウォーホルの手法が問題ならなかっただろうかという興味もあって、この本を読んだ。
 ウォーホルの生涯、その求めていた芸術の真の意味とは何かを、コンパクトにまとめているこの本を読みながら、ウォーホルの求めたアートとは何か、ビジネスとしてのアートがもたらすものは何かということについて考え、デジタル技術の進歩により、複製化が容易になった現代の視点から、ウォーホルの求めたアートの世界を追ってみることは極めて、ヴィヴィッドである。
 この文章を描きながらウォーホルの画集を眺めている。
 文章で説明しきれていない別の何かがあるように思われる。複製、反復のもたらす世界である。
 今、眺めている画集には、モンローの絵のもとになった映画のスチール写真がある。上半身の写真であるが、ウォーホルはその顔部分をトリミングして使用したが、特に、法的な問題は生じなかったようである。
 ウォーホルは、1964年、モダン・フォトグラフィ誌の編集長パトリシア・コーンウェルの撮影した花の写真を利用して、『花』という作品を創ったところ、訴えられ、『花』の絵を2点パトリシアに渡して和解をしたという。
 今、このような作品を発表したら盗作ということで、大騒ぎになるであろう。このような時代には、ウォーホルのようなアーティストは生まれてこなかったといえる。アートは模倣から出発し、創造性を高めていく。文化を共有するという視点がなくなると、文化は衰退するともいえる。
 宮下規久朗のあとがきによれば、この本にウォーホルの図版を使用する予定であったが、ウォーホルの権利を管理する財団の許可が得られなかったために、予定していた内容で制作した版を廃棄したという。
 複製という行為をあらためて考えさせられたあとがきであった

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2010年4月23日 (金)

『エコー・パーク』

⑤2010年4月23日 『エコー・パーク』(上・下) マイクル・コナリー (講談社文庫)

 音楽が効果的に使われている小説は珍しくないが、マイクル・コナリーの新作『エコー・パーク』での使い方のうまさには感嘆した。

 「おれはこれを”箱のなかの奇跡”と呼んでいる。カーネギー・ホールでのジョン・コルトレーンとセロニアス・モンクの共演だ。このコンサートは、一九五七年に録音され、そのテープは保管庫のなんの印もついていない箱のなかに五十年近くほったらかしにされていた。箱のなかにただ入っていて、忘れられていたんだ。その後、議会図書館のある職員が、すべての保管箱とパフォーマンスを録音したテープを調べていて、なにが録音されたのか、ちゃんと認識したんだ。この録音はついに去年発売された。」                            (上・p245)
 ロス市警に復帰したハリー・ボッシュがFBI捜査官のレイチェルと食事をしながらの会話でである。

 麻薬と飲酒に溺れていたジョン・コルトレーンは、1957年、セロニアス・モンクとマンハッタンのライブハウス「5スポット」で共演し、半年近く、ライブ演奏を行った。 当時、スタジオ録音されたレコードは何枚かあったが、ライブ演奏を録音したものはなかったし、オリジナルのカルテットの演奏は数曲程度しか残っていなかった。
 ワシントンDCの国会図書館で、ヴォイス・オブ・アメリカ(アメリカの国営放送)が残していた録音テープをデジタル化する作業をしていた職員が、1957年のカーネギーのコンサートの録音を発見したというのだ。このニュースが報道されたのが2005年4月、その年の9月にはCD”Thelonious Monk Quartet with John Coltrane - At Carnegie Hall ”が発売された。

 コナリーの『エコー・パーク』がアメリカで刊行されたのが2006年であるから、ボッシュの冒頭の会話が現在進行形であることがわかる。
 この会話は、さらに、次のように続く。

 「すてきな話ね」
 「すてきなんてものじゃない。ずっとそこにあったことを考えれば奇跡だ。それを見つけるには、しかるべき人間が必要だった。その価値を認識できる人間が」
                            (上・p246)

 ボッシュは、市警本部強盗殺人課の未解決事件班の刑事である。ボッシュの仕事は、コールド・ケース(迷宮入り凶悪事件)の再捜査であるが、ハリウッド署に勤務していた13年前に起きた少女マリー・ゲストの失踪事件を個人的な思い入れをもって調べていた。 ボッシュと同僚のエドガーは、最後に目撃されたマリーの洋服が丁寧に折りたたまれ、アパートの車庫に駐車されていたゲストの車の助手席に置かれているの発見したが、犯人を捕まえることができなかった。ボッシュは、富豪の息子アンソニー・ガーランドが犯人であると確信し、何度か取り調べにかかるが、証拠を見つけることができないでいた。
 2人の女性の切断した遺体を車に載せていたところを警官に捕まったレイナード・ウェイツが、死刑免除と引き換えに、過去に犯した9件の殺人を自供する司法取引を申し出、9件の内、1件がゲストの件だという。

 ボッシュは、この事態に直面して、次のように語る。
 「わからん。自分がとんでもない過ちを犯したことを受け入れる心構えができていないのは、おれのエゴかもしれない。13年間もひとりの男に目をつけ、その判断が間違っていたということを。そんなことをはだれも直視したくない。」(上・p243)

 そして、冒頭のモンクとコルトレーンの録音テープの話になるのである。
 ボッシュは、犯人がそこにいたにもかかわらず、見逃してしまったことを悔いる。
 ここまでの話だけでも、結構、読ませるのだが、まだ、上巻である。この後、ウェイツは、遺体を埋めた場所を案内しているときに、警官を殺し、逃走する。
 マイクル・コナリーらしく、話は二転三転し、スリリングに続く。

 ハリー・ボッシュを主人公とするこのミステリ・シリーズの面白さは、娼婦であった母と客の間に生まれたボッシュ、母によって同姓の中世の画家にちなんでつけられたヒエロニムスという本名(ヒエロニムスとはanoymous=匿名の、誰もいない、と韻を踏んでいる)、18歳まで養護施設・里親の間を転々とし、ヴェトナム戦争では、地下のトンネルに潜むヴェトコン兵との戦いなどの過去がボッシュの内面に絡み合い、ボッシュの生き方に複雑な影をもたらしていくところにある。
 このように解説すると、重苦しい小説と思われてしまう向きもあるかもしれないが、スリリングに謎が展開していく面白いエンターテイメント・シリーズであるし、シリーズ12作目である『エコー・パーク』から読み始めても十分に面白い。

 ヒエロニムス・ボッシュ(ボスともいう。)の絵は、聖書に基づく寓話を題材にしたものが多く、16世紀の宗教改革運動の際にその多くが破壊されてしまい、残っているのは30枚程度だという。
 プラド美術館に展示されている「快楽の園」という三連の祭壇画は、左に、キリストの姿を取った神がアダムにイブを娶わせている「エデンの園」、右のパネルに、胴体が卵の殻になっている男、人間を丸呑みにしている怪鳥などがいる「地獄」、中央の一番大きなパネルには、無数の裸の男女が様々な快楽に耽っている「快楽の園」が描かれている。
 コナリーが、ハリー・ボッシュを通じて描こうとしている現代は、まさしく、このような異様な「快楽の園」である。

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2010年4月16日 (金)

『プロ野球を殺すのはだれだ』

2010年4月16日 『プロ野球を殺すのはだれだ』 豊田 泰光 (ベースボール・マガジン社新書)   
 日経新聞は、経済記事よりも、スポーツ欄と経済欄が面白い。
 いつも、最終面から読み出す。「私の履歴書」欄は、人物によってのあたりはずれがあるが、今月の「有馬稲子」は面白い。錦之介と出会った頃、某映画監督と道ならぬ関係にあったというあたりは、抱腹絶倒である。誰しも、某とは誰かと思うのだが、その後に、監督は、彼女と別れた2年後に、赤ちゃんを主人公とした映画を作ったと書かれている。
赤ちゃんを主人公とした映画は、『私は二歳』のことであるから、その監督の名はすぐわかる。土曜の朝刊に連載している瀬戸内寂聴の『奇縁まんだら』も、すでに亡くなった人たちとの様々な交遊をネタに、おもしろおかしく書きつづっている。いずれにしても、長生きをした方が勝ちである。
 スポーツ欄では、野球、サッカー、相撲などをとりあげたコラムが面白い。とりわけ、豊田泰光のコラムは、辛口のきいた文章が面白い。
 豊田といえば、中西、稲尾らとともに3年連続日本一となった西鉄の黄金時代の遊撃手であるが、1956年から58年のことであるから、半世紀以上の前のことであるので、豊田が現役選手として活躍していたころを知る人も少ない。               
 豊田は、1935年生まれであるから、70代半ばとなっており、年寄りの繰り言とも思えるところもあるが、その主張に共感することもある。
 まずは、豊田が長年主張している応援団の出す騒音批判である。打球音やミットにボールが収まる音が聞こえる野球の楽しさを語り、グランド上の選手も騒音のために、打球音や声も聞こえないし、観客のヤジもかき消えてしまう。
 東京ドームにいくたびに、あの騒音にうんざりするのだが、私自身、東京ドームのグラウンドに立ったときに、観客席にいる以上の騒音を感じたことがある。もっとも、この時は、都市対抗野球の終了後に、グラウンドを借り切って草野球をしたときである。観客席では、後片付けのために、掃除機が何台か稼働していた。本当にうるさかった。球場の騒音が、野球を観戦する者や選手の身体にとって害がないのか、騒音計で測定してみる必要があると思っている。
 もっとも、応援団の出す音について、観る者の高揚感を奮い立たせるとして、擁護する人たちもいる。応援団の問題は、球場から締め出された一部の応援団に属する人たちから、球団などを相手に訴訟を起こされており、名古屋地裁で判決がで、現在、高裁で審理されている。
 この訴訟がどのような結末を迎えるかは、まだ分からないが、球団が応援団を締め出した理由は、応援団の出す音の問題ではなく、応援団員の中に、暴力団関係者がいることにあるか否かが争われている。ただ、応援団側の論理には、プロ野球を観る者の権利を憲法に定める幸福追求権の一つとしてとらえており、応援団の出す音についても、観る者の権利であるととらえているようである。観客には、投手の投げるボールがキャッチャーミットに収まる音や、打者が振るバットの打球音に耳を澄ましながら、野球を楽しむ権利もあると思うのだが、どうであろうか。
 豊田は、次のようにいっている。
 「すべてのファンが野球を楽しめるように、球場では次のことを守りましょう。
   ① 他人に応援を強制しない。
   ② 他人の耳をつんざくカネや太鼓を鳴らさない。
   ③ 他人の目を覆う大きな旗やのぼりを振らない。」(p127)

 最近、盛んに、野球において、プロとアマの接触を厳しくしていることを緩和して、プロ野球選手もしくはOBが学生野球の選手を指導できるようにすべきだとのことがいわれている。学生野球が、プロとの接触を厳しく禁じているのは、プロがアマチュア選手の勧誘に関し、節度ある行為をしてこなかったという長い歴史がある。数年前に起きた西武球団の裏金問題など、疑惑のある行為は数限りない。
 プロ出身の優秀な指導者が学生に野球を教えるということはあってもいいと思うのだが、プロ野球選手であれば、技術的にもいい指導ができるというような議論がまかり通っている。学生が、教育の場、学問の場である学校で野球をするということは、技術的なことだけを学ぶことではない。野球も、サッカーのように、指導者になるためのライセンス制度を設け、研修をし、指導者としての一定のレベルを確保する方策が必須であ。
 野球において、指導者のラインセンス制度ができないのは、野球の組織自体が、プロ、実業団、学生、少年野球と、バラバラで、一体として機能ししていないことにもその理由があると思われる。
 技術論に関して、豊田は、次のようにいっている。
  「野球は一人一理論」 -。これは私の20年来の持論ですが、あるレベルに達した野球人というのは、それぞれに「オレの野球はこうだ」「打撃術はこうだ」「投球術はこうだ」「守備のポイントはこうだ」などと、自分の野球能力を理論づけたいという要求を持っています。
   私はこれは野球人として当然の要求だと思います。
   ただし、その理論を他人に押しっけるとなると、これは面倒なことになります。
   この理論はあくまでも自分自身の体験から構築されたもので、そのまま他人にそっくり当てはまるなんてのはあり得ないのです。自分とまったく同じ人生体験、野球体験をした人はこの世にいないのですから。
   だから私は一人一理論といったのです。この、大げさにいえば、選手の数だけある理論からどれが一般性があり、一般性があっても説明が難しいものはどれか、といったセレクトと整理をやってはじめて、だれにでも共通でよくわかる野球の基本理論が出来上がるワケです。」(p152)
 
  「共通でよくわかる野球の基本理論」を身につけた指導者が、選手の個性にあったコーチングをするというシステムを作るためにも、指導者のライセンス制度が必要な所以です。
 
 この他にも、豊田は、地盤沈下しているプロ野球の人気を盛り上げ、メジャー・リーグに対抗していくためには、NPBの現在の12球団を増やすこと、さらには、韓国、台湾のプロ球団を加入したアジア・リーグの創設を提唱する。
 
 「 私は10年以上前に、日本のプロ野球は縮小するのではなく、むしろ16球団にエクスパンションして、日本を4チームずつの4地域に分け、それぞれの勝者でポストシーズンゲームを行えという提唱をしたことがありました。
     16チームは総当たり。だから、実質的には1リーグです。でも、ファンは楽しんでくれるハズです。巨人-阪神なんて日本シリーズも実現するワケですから。 二軍はなくす。1チーム40人で戦う。チーム編成については外国人枠をなくす。なくすどころか、外国人のみのチームがあったっていい。」(p230)
 
     先にいった、なんでもアリの16球団のバリエーションがアジア・リーグなのです。
    日本のチームを10球団韓国のチームを2、3球団。台湾からも1、2球団。これらのチームでアジア・リーグを作る。中国も力をつければ1球団加える。外国人はもちろん、何人でもOK。安い給料でもやりたいというアメリカ、中南米、オーストラリ アなどの力のある選手にはどんどん入ってもらう。」(p232)
   
   
    このような時代がきたら、楽しいと思っているのですが、どうでしょうか。

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2010年4月10日 (土)

『いつか白球は海へ』

2010年4月10日 『いつか白球は海へ』  堂場 瞬一 集英社文庫

 東京駅から、鹿島まで行くには、直行バスで90分かかる。
 持っていた小説を読み終わってしまったので、八重洲の地下街の栄松堂に入る。
時間がなかったので、このところ贔屓にしている堂場瞬一の小説を買うことにした。刑事物を若干、食傷気味ということもあって、『いつか白球は海へ』にした。帯には、「野球を愛する男たちの直球勝負が熱く心地よいスポーツ小説」とある。
 六大学野球のヒーローであった海藤敏は、間島水産の社長の懇願で、潮灘市にある間島水産の野球部に入ったのだが、間島水産の社長は急死してしまい、会社から、フィリピンに建設した工場の閉鎖を理由に、野球部の存続も1年限りと通告されてしまう。
 間島水産野球部は、全国制覇をしたこともある名門チーム、海藤は、小学5年生のときに、後楽園球場の決勝戦で、4番の三浦のさよならホームランを観て以来のあこがれのチームであったが、チームの練習には三浦はあらわれず、やる気のない選手たちの姿であった。
 海藤たちが通う喫茶店の名前が「ロコモーション」で、店のラジオからは、アニマルズの「朝日があたる家」やロイ・オービソンの「オー・プリティ・ウーマン」が流れている。「ロコモーション」の曲は、最近、テレビで流れているのを耳にしていたし、企業の野球部の廃止という話などから、何となく、現在の物語として読み始めていたのだが、プロ野球の開幕戦の巨人ー中日戦で、国松がホームランを打ち、国鉄から移籍してきた金田が完投勝利をしたとある。ということは、昭和40年頃の話ではないかと気がついた。
 ロコモーションを歌っていたのはリトル・エヴァだが、ネットで調べてみると、1962年に全米で大ヒットしたとある。アメリカでヒットした曲が、同時期に、ラジオで流れるようになったころである。社会人野球も全盛で、後楽園球場もにぎわっていた。
 文庫の初版は2009年である。堂場が書いたのは何時かと思い、調べてみると、2004年に集英社で単行本で出ている。
 長島の現役時代を見た世代にとっては懐かしい時代を背景として最後まで、面白く読んだが、若い世代はこれを読んでどう感じるだろうか。
 ラスト・シーンの終わらせ方も、さわやかでいい余韻をもつ好編。
 

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