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2010年4月30日 (金)

『クリント・イーストウッド―ハリウッド最後の伝説』

2010年4月30日 『クリント・イーストウッド―ハリウッド最後の伝説』
        マーク エリオット 、笹森 みわこ・ 早川 麻百合訳

 日比谷の映画館で、クリント・イーストウッドの『ダーティ・ハリー』(1971年)を見たときの衝撃を今でも覚えている。司法試験に合格した年である。試験が終わって、合格発表の前のときであった。
 
 クリント演じるサンフランシスコ警察のハリー・キャラハンが、のんびりと立ち寄った店で、強盗に遭遇し、向かってくる強盗の車に、マグナム弾を装填した大型拳銃を発砲し、横転させる冒頭のシーン。静から動への転換の鮮やかさは、今、DVDで見ても、惹きつけられる。
 だが、衝撃を受けたのは、中盤、ようやく捉えた犯人が釈放をされてしまうシーンであった。
 さそりと名乗る連続殺人は、14歳の少女を誘拐して生き埋めにし、少量の酸素を送り込んでいる。すぐ20万ドルの身代金をよこさないと殺すとする脅迫状を警察に送ってきた。ハリーは20万ドルを持って、犯人の指定したマリーナに向かい、犯人に襲われてしまうのだが、重傷を負いながらも、スタジアムで犯人を追いつめ、傷を負った男を拷問にかけ、少女を助けるのだが、犯人は、ハリーの逮捕手続が法に従ったものではないとして、釈放されてしまう。

 刑事ドラマで、犯人を逮捕する際に、刑事が犯人に対し、小さな紙切れをみながら、「黙秘権がある。供述は法廷で不利な証拠として用いられることがある。弁護士の立ち会いを求める権利がある。弁護士を依頼する金がなければ、公選弁護人を付けてもらう権利がある。」告げている場面をよくみかける。
 アリゾナ州でのメキシコ移民アーネスト・ミランダによるとされた誘拐・婦女暴行事件(ミランダ対アリゾナ州事件)について、連邦最高裁は1966年、訴訟手続が違法であったとして、原審の有罪判決を破棄して、無罪判決を出した。このときの被告人の名にちなんで、Miranda warning(ミランダ警告)とよばれている。

 凶悪犯であっても、司法の適正手続に反した逮捕であれば釈放される。日本では、このようなことはありえない、犯人は犯人で、手続がどうであろうと、処罰されるべきであるというのが、国民の多くの意識であり、裁判所でも同様である。
 
 司法試験を受けたばかりの私は、その余韻を持ち続けていたこともあって、アメリカではこのような娯楽映画でも、司法の適正手続が浸透しているのだと感じ入ってしまったのである。
 ただ、この映画をこのように理解したのは間違いであった。映画『ダーティ・ハリー』は、銃にものをいわせて、自ら、法を超えた正義を執行するハリー・キャラハンに世間は快哉を叫んだにすぎず、「司法の適正手続」という法の裁きに異を唱えるもので、ちんぴらに妻を殺された男が、夜ごと街にでかけ、無法な男たちに正義の鉄槌をくだすというチャールズ・ブロンソンの映画『狼よさらば』(1974年)と軌を一にする。

 この点について、この本の著者マーク・エリオットは、もう少し、複雑な分析をする。

  ” たしかに、この作品には社会的要素も含まれ、当時の混乱した政治状況を背景にしている。製作が進められたのは、アメリカがベトナム戦争に本格的に介入するきっかけになったトンキン湾事件から十年が経ち、戦争がいよいよ激しさを増したころだった。このころまでにアメリカ国民は戟争に飽き飽きし、「世界の警察官」として君臨するアメリカというライオンのうなりが、切羽詰まって恐怖にかられた悲鳴、あるいは、こけおどしのむなしい叫びに変わることを恐れていた。ベトナム戦争がハリウッド映画で直接描かれるのはこれより何年もあとのことになる。マイケル・チミノの「ディア・ハンター」 (一九七八年)、ハル・アシェピーの「帰郷」 (一九七八年)、フランシス・フォード・コッポラの「地獄の黙示録」 (一九七九年)はすべて、この戦争を振り返る内容だ。しかし、まだ一九七一年の段階で、「ダーティハリー」はアメリカ人の一部に見られる過剰な反公民権勢力、ベトナム戦争支持勢力、そして世界中の反米感情と真正面から向き合っている。記憶に残る「今日のおまえはツイてるか? どうだ、役立たず?」のシーンは、キャラハンが特大の四十四口径マグナムを黒人強盗の顔に突きつけ、正義と法と秩序を守る白人の絶対的権威に対して運と勇気を試すようにおどしつけるものだ。
   このシーンを見て、このセリフを聞いた者は、たとえ歴史的な背景を失ったとしても、その鮮やかな印象を忘れることはない。キャラハン (とアメリカ) の陰湿なサディズムを象徴する、時代を超越した名シーンになった。”(p211)
 
  深読みかなと思いながらも、今、見るとそう思えなくもない。
  しかし、結果として、映画から読めるのにすぎず、この映画に主演したクリント・イーストウッドや監督のドン・シーゲルがここまで考えて作ったとは思えない。面白い映画を作ろうとしてできあがったものが、時代の意識を反映するというエンターテイメント映画のもつ奥深さというほうが正しいであろう。
 
  クリント・イーストウッドは、テレビで放映されていた『ローハイド』から、黒沢明の映画のリメイク『荒野の用心棒』、マカロニ・ウェスタンの白眉ともいえる『夕陽のガンマン』から、最近作の『インビクタス』まで、同時並行で、観てきた俳優であり、監督である。
  『クリント・イーストウッド―ハリウッド最後の伝説』は、クリントの生い立ちから、最近作までのクリント、先妻マギーとの間に1男1女、現在の妻ルイスとの間の1女のほかに、4人の子どものこと、2度にわたり子どもを堕ろさせた愛人ソンドラ・ブロックのことなどのスキャンダルめいた話を、嫌みなく、描いており、クリント・イーストウッドの全体像を俯瞰させてくれる。
 
  ”おそらく、クリント・イーストウッドほど演じる役柄と実像が重なり合うハリウッドスターはいないだろう。DNAの二重らせんを構成する二本の鎖のごとく、スクリーンの中のクリントと実生活のクリントを切り離すことは不可能に近い。あまりに完壁に役におさまるために、どこまでが映画のなかの登場人物で、どこからがそれを演じるひとりの俳優の素顔なのか、境界線はあいまいになる。
   これまで出演、製作、監督のいずれか、あるいはその二つ以上の役割を兼ねてつくり上げてきた作品のなかで、クリント・イーストウッドは三種類の代表的キャラクターを生み出し、繰り返しスクリーンに登場させてきた。第一はセルジオ・レオーネ監督の西部劇三部作、「荒野の用心棒」 「夕陽のガンマン」 「続・夕陽のガンマン 地獄の決斗」 に登場する、秘められた過去をもつミステリアスで寡黙な”名無しの男”だ。それうぃわずかに変化させたキャラクターが「奴らを高く吊るせ」 「アウトロ」にも姿を現わし、少しずつバリエーションを変えながら、「許されざる者」の老ガンマンへと至る。第二の顔は、「ダーティハリー」シリーズのハリー・キャラハン刑事。ニヒルさが持ち味のこの個性的な人物像も、最近の「グラン・トリノ」まで繰り返し描かれている。第三のキャラクターは腕っ節が強く無骨な、いわゆる”レッドネック”タイプの男で、ほかの者なら言葉を使うところで、こぶしに物を言わせる。「ダーティファイター」のファイロ・ベドーがその原型となり、いくつかの作品を経て「ピンク・キャデラック」へと引き継がれていった。
   わずかずつ姿を変えながら変えながらスクリーンに戻ってくるこの三つのキャラクターは、本質的な部分で生身のクリントと結びついている。いずれも究極の一匹狼で、アメリカ映画の伝統的なヒーロー像にはあてはまらない。それまでの映画で”孤高ののヒーロー”としてすぐに思い浮かぶ主人公は、実際には孤独とはいえなかった。(p26)
 
  ”クリント・イーストウッドが演じる映画の中の主人公は、自分以外の何ものも必要としない。相手にするのが残忍な殺し屋であろうと、男を手玉にとる女であろうと(両方が重なる場合も多い)、”名無しの男”に対して顔の見えない敵であろうと、しつこい賞金稼ぎ(最後にはもっとあくどい誰かに倒される)であろうと、相棒のオランウータンであろうと”名無しの男”ダーティハリー、ファイロ・ベドーはつねにひとりで姿を現わし、ひとりで去っていく。女の尻を追いかけることはほとんどないので、ロマンスが生まれることもめったにない。クリント演じるキャラクターが、気が進まないながらも女性とかかわることになる数少ない状況では、その関係は距離を保ち、皮肉に満ち、ロマンチックさのかけらもなく、たいていは親密さが感じられない。
   いわゆるラブストーリーがクリント・イーストウッド映画で重要な要素になることはない。彼の演じる孤独な男は、男女を問わず彼のそばにいたいという者たちの期待に応えはしない。しかし、その姿を見て彼のようになりたいと思う観客の期待は十分に満足させてくれる。そうした役柄を通して、クリントはアメリカ映画の常識に挑み、独自の世界を築き上げてきた。(p28)
 
確かに、クリント・イーストウッドの演じてきた役柄は、孤高のヒーローというよりは、他者からの共感に距離を置き、拒絶している。
孤独であるからこそ、絶えず、手許に女性を置こうとする、そこに愛があるかどうかは分からないのだが・・・
 それゆえにだろうか、クリントは、監督・主演した『許されざる者』で、アカデミー賞監督賞、作品賞を受賞し、『ミリオンダラー・ベイビー』で、2度目のアカデミー作品賞、監督賞を受賞をしたが、未だ、手にすることができないアカデミー主演賞を渇望しているようにみえる。孤独故に、俳優としての自分を確認したいとしているのであろう。

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