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2010年6月26日 (土)

『社長・溝畑宏の天国と地獄 -大分トリニータの15年』

2010年6月26日 『社長・溝畑宏の天国と地獄 -大分トリニータの15年』
                木村 元彦  集英社

 2009年1月12日、『サロン2002』の公開シンポジウム「地域からみたJリーグ百年構想ー地域に見る熱きムーブメントを語る」が開催された。サロン2002のサイトhttp://www.salon2002.net/symposium/2008_sympo.pdf に、シンポジウムの報告書が掲載されている。
 2008年、大分県を本拠地とする大分トリニータは、ナビスコカップに初優勝し、リーグ戦も4位という好成績であった。報告者は、大分トリニータのボランティア組織の事務局長や会長をしていた宮明透氏である。宮明氏は、トリニータの母体である大分FCの発足当時、大分県のサッカー協会の常務理事をしていた。
 国立競技場のナビスコカップの決勝戦には、大分県からトリニータの応援にきた人が1万人、サポーター席には1万5-6000人集まったという。青と黄の応援のカラーボードに埋まった国立競技場の写真は圧巻で、サッカーというのはこのような力があるのだと感動したのを昨日のことのように覚えている。
 東京の人間は、1万人の人が東京にきたといってもピンとこないかもしれないが、東京にくるだけで、1日がかりとなる。大分空港から東京への飛行機は、1日10便、3000人のキャパしかない。福岡空港まで行くか、東京まで、バスや車で行くことになる。
 宮明氏の話は、サイトで読んでもらえば分かるのだが、最後に、「地域になくてはならない存在、トリニータ」という言葉でまとめられている。

 しかし、翌2009年、トリニータはリーグ戦17位となり、J2に降格し、6億円近い債務超過により、経営危機となり、社長の溝畑宏は解任となり、Jリーグから公式試合安定開催基金の融資を受けることになる。
 何故に、このような事態になったのだろうか、東京でみるメディアの報道からは情報を得られなかった。
 
 『社長・溝畑宏の天国と地獄 ~大分トリニータの15年』は、自治省から大分県に出向してきた官僚溝畑宏が、大分にJリーグのチームを作ろうと悪戦苦闘し、ナビスコカップの勝利をつかみながら、トリニータの経営危機の責任をすべて負わされて、追い出された背景を丁寧に分析している。Jリーグの百年構想のあり方、さらには、地方の活性化を図るときの問題などが、見えてくる。
 著者の木村は、トリニータの発足時には、東京の官僚が地方でJリーグのチームを作ることには懐疑的であったのが、事態の背景を探るうちに、溝畑の経営手法にも問題があったが、選手や職員の給料の遅配をさせないために、溝畑が、宴席で裸踊りをしてまで、県外のスポンサーを探し、獲得していく様子に、複雑な気持ちを持ちながらも、溝畑のチームを作り、維持していこうとした熱情・実行力を評価しようとする。
 
 正直言って、溝畑の行動には、身近にいてほしくないと引いてしまう気持ちの方が強いのだが、大きな目的を達するためには、狂気に近い熱情と行動が必要だと痛感してしまう。我が身を含めて、評論家的な態度で冷ややかにみることからは、何も生まれない。
 
 大分トリニータのこれからはどうなのか、大分に根付きつつあったサッカー文化はどうなっているのだろうか、と思いつつ、溝畑がいなければ、大分トリニータはあり得なかった、10年、15年後、大分のスタジアムで溝畑が歓呼をもって迎えられる姿をみたいと思っている。

 溝畑は、トリニータにのめり込むことにより、私財をなげうち、妻とも離婚してしまった。しかし、溝畑の奇人・変人振り、実行力に惚れ込んだ人たちは、溝畑の悪口をいわない。
 溝畑は、今、観光庁長官として、日本への観光の誘致をしている。今朝の朝日新聞に、溝畑のインタビュー記事が掲載されていた。自治省の天下り先に拾ってもらったとみるか、あの実行力に惹かれて抜擢して中央の眼がいたのか、これからの溝畑の行動もウオッチしていくのも面白いかもしれない。

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2010年6月20日 (日)

『インビクタス~負けざる者たち』

2010年6月20日 『インビクタス~負けざる者たち』 ジョン カーリン 日本放送出版協会

 ワールドカップと称するスポーツ大会は多々あるが、現在、南アフリカで開催されている「FIFAワールドカップ」の代名詞となっているが、もう一つのワールドカップといえば、ラグビーワールドカップである。
 ジョン カーリンの『インビクタス~負けざる者たち』は、1995年、南アフリカで開かれたラグビーワールドカップの物語を軸にしたノンフィクションである。
 南アフリカは、世界の非難を受けながらも、公然と人種隔離政策(アパルトヘイト政策)をとっていた国である。
 人種隔離といっても、白人と黒人という単純な図式ではない。南アフリカには、当然のことながら、先住のアフリカ諸民族の住んでいたのだが、17世紀にオランダが東インド会社の中継基地として、ケープタウンを植民地とした。この植民地に入植した移民をブール人という。日本では、ボーア人というほうが馴染み深いかもしれない。
 18世紀には、イギリスが、南アフリカの金やダイヤモンドを狙って、ケープタウンを占拠し、ブール人と対立する。ナポレオン戦争後、植民地がオランダからイギリスに譲渡されると、英語を解さないブール人はイギリス人から差別されるようになり、自らアフリカーナと呼ぶようになる。
 1948年にアフリカーナーの農民や都市の貧しい白人を基盤とする国民党が政権を握り、アパルトヘイト政策(人種隔離政策)を推進していった。
 ネルソン・マンデラは、反アパルトヘイト運動により反逆罪として逮捕され、ロベン島にある刑務所に収監されていたが、国際的に孤立し、南アフリカデ・クラーク大統領は1990年代に、アパルトヘイト政策の廃止を決断し、マンデラらと話し合いを始める。
 マンデラは、主義主張が異なり、一枚岩ではないアフリカ民族会議(ANC)の構成員たちをまとめながら、アパルトヘイト政策(人種隔離政策)の廃止により、生命・財産を失うのではないかと恐れるアフリカーナとの融和を平和的に図っていく。
 この平和的な融和策にとって、もっとも効果のあったが、1995年、南アフリカで開かれたラグビー・ワールドカップの開催であった。
 南アフリカのサッカーは黒人を中心としたスポーツで、ラグビーは白人しかも、英国系の白人のスポーツであった。
 代表チームの「スプリングボクス」は強豪チームであったが、1981年、ニュージーランド遠征をした際、アパルトヘイト政策をとる国のチームということで各地で反対運動に見舞われ、1985年には、国際舞台から締め出されてしまう。

 ニュージーランドのオールブラックス、オーストラリアのワラビーズとともにトライネイションズを形成する南半球の強豪である。サッカーの南アフリカ代表がアフリカ系の選手を中心に構成されているのに対し、スプリングボクスはヨーロッパ系の選手が主体となって構成されているのが特徴的である。そのためかつては、アフリカ系に不人気だった。
 1994年4月、全人種が参加した総選挙により、アフリカ民族会議が勝利し、ネルソン・マンデラが大統領に就任した。
 南アフリカで、ラグビーワールドカップが開かれたのはその翌年の1995年である。
 スプリングボクスは、アフリカーナ1人のみで、その他は英国系白人のチームで、黒人たちが応援をすることは考えられなかったが、マンデラは、スプリングボクスの戦いを通じて、黒人、英国系白人、アフリカーナたちの融和を図ろうとする。
 
 ジョン・カーリンは、熱くならず、淡々と、南アフリカの置かれている状況、マンデラを取り巻く敵や味方の様子を淡々と描いているのだが、ヨハネスブルクのエリス・パークでのスプリング・ボクスとニュージーランドのオールブラックスの試合の場面は感動的である。感動といっても、大袈裟なものではない、静かなる感動である。
 当然のことながら、南アフリカの抱える問題はこの場面で終わる訳ではなく、FIFAワールドカップが開かれている今でも、貧富の格差、犯罪率の高さなどがいわれている。
 それでも、『インビクタス』を読むことにより、何故、南アフリカでFIFAワールドカップを開催したのか、開会式にマンデラが登場するのが熱望されたのがよくわかる。マンデラは、孫の交通事故死を理由に開会式を欠席した。マンデラが刑務所に収監されているときに、息子を交通事故で失っている。開会式をどのような気持ちで迎えたのだろうか。

 日本チームの思いもかけない活躍に熱狂するのもいいのだが、このような南アフリカの歴史や社会状況を知ることにより、ワールドカップのもつ意味を噛みしめながら、TV観戦をしてみようと思う。
 ラグビーワールドカップの決勝戦が開かれたエリスパークは、アルゼンチン vs ナイジェリア戦、ブラジル vs 北朝鮮などの試合の会場である。21日のスペイン vs ホンジュラス戦など、これから数試合行われる。
 日本チームにも、南アフリカという国をよくみてきてほしいと思うのだが、快適な環境に隔離されていて無理でしょう、

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2010年6月14日 (月)

『初陣 隠蔽捜査〈3.5〉』 

2010年6月13日 『初陣 隠蔽捜査〈3.5〉』 今野 敏 新潮社
  『果断―隠蔽捜査〈2〉』で、 山本周五郎賞・日本推理作家協会賞を受賞した今野敏の「隠蔽捜査」シリーズは、息子の不祥事により、長警察庁長官官房の広報室長から大森署署長に左遷された竜崎伸也が主人公の警察小説である。現在、『疑心ー隠蔽捜査〈3〉』まで刊行されている。
   〈3.5〉とあるのは、「隠蔽捜査」シリーズに、脇役として登場する伊丹俊太郎を主人公とする番外編だからである。
   警察の幹部になるのは、国家公務員の上級職試験に合格したキャリア組である。しかも、東大卒でなければならない。私大卒のキャリアは、東大卒のキャリアを乗り越えることは至難である。
   私大卒の伊丹と東大出身の竜崎は、小学校が同級生の幼なじみであるが、警察庁内では立場が異なる。伊丹は、私大卒であることを意識し、竜崎は気になる存在である。
  伊丹は、福島県警の刑事部長から、警視庁の刑事部長となり、息子の不祥事により、大森署長に降格された竜崎を指揮命令する立場となる。
   
   福島県警から警視庁への異動の内示を受けた伊丹は、県警の管轄内でおきた殺人事件の捜査本部で陣頭指揮をとるべきか悩み、竜崎に電話をかける『指揮』から、大森署管内でおきた事件をめぐる『静観』までの8つの短編からなっている。
 
   会社勤めでも、同期入社の幼なじみが上司となるということには微妙な綾がある。
   東大出のキャリアの強みは、少数のエリートを形成し、警察内部だけではなく、官僚、政界、財界と、長年培われたネットワークがあるということである。大学を出て、官僚になった頃には、原理原則から物事を考え、青雲の志をもっていても、次第に、ネットワークに取り込まれていくのだが、伊丹の目からは、竜崎は原理原則を曲げようとしないことがまぶしくみえる。
   一方の伊丹は、私大出のキャリアの生きる道として、殺人事件の捜査本部で陣頭指揮をとることを自己に課し、メディアに対しても、積極的に対応することを心がけている。
   「隠蔽捜査」シリーズは、この2人の生き方の対比が物語に深みを与えている。
   ミステリ的要素は薄いが、隠蔽捜査シリーズの番外編、裏話として面白く読んだ。

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2010年6月11日 (金)

『キング&クイーン』  柳 広司

@2010年6月11日 『キング&クイーン』  柳 広司 講談社

 六本木、俳優座の脇の細い通りを一本入った雑居ビルの4階にある小さなカウンター・バー<ダズン>で、働く冬木安奈は、警視庁の元SP。父は、交番に勤務するきまじめな警察官であったが、非番のある日、酔っ払い同士の喧嘩を止めに入り、刺殺された。合気道、古武術を教える祖父は、安奈に、己の持てる技術、奥義を教え込んだ。
 SPになった安奈は、ある人物の警護をきっかけに警察を辞めたのだが、バーを訪れてきた宋蓮華に、元チェス世界王者の“天才”アンディ・ウォーカーを守ってほしいと頼まれる。ウォーカーは、アメリカ合衆国大統領に狙われているのだという。
 章ごとに、安奈が警察を辞めた経緯、不世出の世界チャンピオンになっていくウォーカーの生い立ちが順に描かれ、その合間に、ウォーカーをつけ狙う犯人と安奈との戦いが織り込まれている。安奈を、バックアップする元の上司の首藤たち・・・と、お膳立てが揃い、安奈の身を気遣う首藤に、安奈は、「”警察官の仕事は、目の前の困っている人絶対に見捨てないことだ”」が父の口癖であるとして、ウォーカーに「約束したのです。どんなことがあっても決して見捨てない、と」言い放つ。
 一瞬、新しいニューヒロインの登場かと期待した。
 しかし、チェスの才能を見いだされたウォーカーが世界チャンピオンになっていくあたりの描かれ方が平板となり、安奈と襲撃者の戦いがあっけなく終わり、襲撃の真相となると、ここでこんなことになるのとの思いだけが残ってしまった。
 ヒロインの設定が魅力的なので、再度、チャレンジしてほしいのだが・・・

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