« 2011年4月 | トップページ | 2011年6月 »

2011年5月28日 (土)

『 ムーンライト・マイル』

 2011年5月15日『 ムーンライト・マイル』デニス・レヘイン (角川文庫)

 デニス・レヘインの『ムーンライト・マイル』(2010年)は、探偵パトリック・ケンジーとそのパートナーであるアンジーを主人公とするミステリ・シリーズ。
 5作目の『雨に祈りを』(角川文庫)が発表されたのが1999年であるから、12年ぶりのシリーズ最新作ということになる。
 この間、レヘインは、『ミスティック・リバー』、『シャッター・アイランド』、『運命の日』などのノン・シリーズを出しており、映画化により話題となっいていたので、待望のシリーズ・最新作ともいえるし、なぜ、いまさらという感じもしないではない。

 12年前、パトリックとアンジーは、失踪した4歳の少女アマンダ・マックリーディの捜索の依頼を受け、アマンダを発見し、無事、母親のもとに取り戻した(シリーズ第4作『愛しき者はすべて去りゆく』角川文庫)。
  しかし、この事件が、パトリックとアンジーの2人の生活に微妙なわだかまりをもたらしていた。12年たった今も。

「おたがいにずっと触れずにいた問題は、アマンダ・マックリーディが最初に姿を消した時にわたしたちが取った行動についてだった。法律か四歳児の幸福かの選択を迫られた時、アンジーの反応を要約すれば……法律なんて知ったことか。
  一方わたしは高潔な道を選んで、ネグレクトされていた子供をネグレクトする親の元へ戻そうというお上に手を貸した。わたしたちふたりの関係はそこで壊れた。1年近く言葉も交わさなかった。時間のたつのが遅く感じられる時があるものだが、その1年は15年ほどに感じられた。」(p125)

「12年前、わたしはまちがっていた。それ以降は毎日、およそ4400日ほどだが、それを痛感した。だが、12年前、わたしは正しかった。アマンダを誘拐犯とともに残すことは、彼らがどれだけアマソダを幸福にできるとしても、やはりアマソダを誘拐犯とともに残すことであった。彼女を取り戻した目から4400日間、これは真実であると確信していた。ならば、わたしはどこで真実から離れてしまったのだろう?わたしがひどい行いをしたといまだに固く信じている妻といっしょに。」
 
アマンダが再び失踪した。
パトリックとアンジーはアマンダの捜索をするべく、アマンダの12年間の生活を調べ出すというのが『 ムーンライト・マイル』のストーリー。
 アマンダのその後を追いかけていくあたりは、ミステリアスでいいのだが、ロシアン・マフィアが登場するあたりから、話しがいささか荒っぽく展開していき、それほど、いい出来の小説ではないが、パトリックとアンジーの関係がどうなっていくかの興味で最後まで一気に読んだ。

 ようやく見つけたアマンダは、パトリックの言葉に反応する。
「きみはこの子を誘拐した」
「あなたもわたしを誘拐したじゃない」
 
「わたしの家がどこかなんて、よくも言えたものね? ドーチェスクーはただ生まれた場所よ。わたしはヘリーンの血を引いているけれど、ジャックとトリシア・ドイルの子供よ。わたしが誘拐されたって言われていた時期、どんな生活をしていたか、覚えているわ。完壁に素晴らしい七ヵ月だった。緊張も不安もなく、悪夢にうなされることもなかった。病気にもかからなかった。ゴキブリとゴキブリのばい菌がうようよしていたり、台所の流しで食べ物が腐ったりしているような、母親が掃除したこともないような家を出たからね。」

「そこにあなたが来た。ドーチェスクーに帰されて二週間たち、社会保障局のケースワーカーが、ヘリーンにわたしを育てる資格があると認定したあと、7時になにがあったか分かるかしら?」(p366)

そして、アマンダの問いに対し、パトリックは応える。
「なぜ、あんなことをしたの?」
「きみを家に戻したことか?」
「連れ戻したこと」
「状況倫理と社会倫理が対立したケースだ。おれは社会倫理を優先した」
「ありがたいこと」(p368)

 何が正しいと判断することは難しい。正しいと判断したことが必ずしも正しいとは限らない。パトリックが抱える葛藤は、私たちも常に抱えている。ただ、私たちがそれに気がつかないだけかもしれない。
 パトリックが最後に選んだことがその答えなのだろうか。
 最終章のパトリックの選択は、最後まで読み終えた読者によって受け止め方が異なるだろう。
 パトリックが12年かけてたどり着いた世界は、レヘインが12年間かけてようやく得たものである。重いテーマを突き詰めようとしたこのシリーズをこの本でもって終わりにしたのは、パトリックとアンジーの2人のこれからを描いていくことの困難さ、次なるテーマを見いだすことの難しさをレヘインが自覚したからではないかとふと思った。

 『ムーンライト・マイル』は、ローリング・ストーンズのアルバム『スティッキー・フィンガーズ』に収録されている曲である。ジャケット・デザインはアンディ・ウォーホルで、確か、オリジナルは本物のジッパーが付いていた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年5月15日 (日)

『コミュニティデザイン―人がつながるしくみをつくる』

2011年5月2日 『コミュニティデザイン―人がつながるしくみをつくる』 山崎 亮  学芸出版社  (2011/4/22)

 「町興し」、「村興し」ということばが流行りだしたのはいつの頃からだろうか。
 田中角栄の日本列島改造論が日本全国を席巻したのが1972年である。猫も杓子も、町興しに浮かれていた。
 そして、1980年代に、バブル経済が膨らみ、1990年にバブルが破裂し、失われた20年となり、さらに、今、未曾有の東日本大震災という災害に見舞われることになる。
 復旧から復興へと、がんばれ東北、がんばれ日本とのかけ声は大きいが、その歩みは遅々ととしている。
 津波で多くの人の命が奪われ、行方不明の人も多い。
 それでも、私たちは生きていく。被災した東北にも桜の季節が訪れ、やがて、新緑となり、人の営みは続く。

 山崎亮は、『コミュニティデザイン―人がつながるしくみをつくる』の後書きで、この本の原稿を書き終わる頃に、東日本大震災が起き、原稿を書く手が止まったとしている。
 そして、山崎は、以下のようにいう。
 「コミュニティの力を信じた頃の自分を思い出した。こんなときだからこそ、コミュニティデザインに関する原稿を書き上げるべきだと自分に言い聞かせた。
 被災地の道路や住宅はいずれ復旧するだろう。同じ場所にまちをつくるべきかどうかは検討の余地があるものの、ハード整備はそれなりに進むだろう。同時に考えておくべきは人のつながりだ。」
 「非常時には人のつながりが大切になる。言うまでもなく、それは平常時から手入れをしておくべきものだ。災害が起きた後、仮設住宅を建てるように効率よく人のつながりを構築することはできない。日々のコミュニティ活動が大切なのだ。だからこそ、いま、コミュニティデザインに関する書籍を世に問うべきだろう。」
 
 テレビの大画面映像で、津波に流される人や車、そして、家を見たことにより、自分の内側が変わったような気がする。
 あちら側ととこちら側の世界がある。身近にも、被災地での支援活動にいくもの、義援金を出したり、募金活動をしている人たちが多くいる。それでは、自分が何をするのか、何をできるのであろうかを考えている。何ができるのであろうかと、手探り状態が続いている。
 もう少し、じっくり考えていこう。動くのは、今年より来年、再来年なのかもしれない。そのようなことを考えながら、この本を読んでいた。
 
 山崎のいう「コミュニティデザイン」とは、住宅配置計画でもないし、ランドスケープデザインでもない。
 日本の社会は、この50年多くの住宅地がつくられたが、都会も田舎も良質な人のつながりを失い、無縁社会化が進んでおり、住宅の配置計画やランドスケープのデザインの刷新では解決できないと、山崎はいう。
 
 東日本大震災というより、東電の福島原発問題によるという方が正しいのだが、ようやく、東京への一極集中の危険性を真剣に検討されるようになった。効率性を重視する社会がいかに脆いものであったか気がついたである。

 山崎がコミュニティデザインに関心を持つようになったのは、多大な労力と金をかけて作られた公園が、10年もしなうちにほとんど人がいないさびしい場所になってしまうのかという疑問からスタートした。この本は、山崎が携わった数々の地域の実践の活動の報告で、いくつかのキーとなる言葉がちりばめられている。
 
 「公園をつくらないで、つくるしくみをつくる。」(p27)
 
 「僕たちの仕事は地域に住む人の話を聞き出すことからはじまる。
   モノをつくるのをやめると人が見えてきた。」 (p59)
 
  「100万人の人が一度だけ訪れる島ではなく、1万人の人が100回訪れたくなる島」

 「1人でできること、10人でできること、100人でできること、1000人でできること」 (p136)

 このような視点をもつことによって、視野が広がり、状況をまだまだ好転させられるのではないかという思いが生じてくる。
 
 さらに、山崎はデザインは社会問題を解決するためのツールだとし、10人でできることして、「昔はよかった」「最近の若いものは・・・」「俺が若い頃は・・・」「こんなはずじゃなかった」をやめるのだという。
 
 これは、10人でなくとも、1人でも実践できる。

 そして、山崎は、「課題をみつけたらすぐに企画書を書くこと、必要に応じて何度も何度も書き直すこと」が大事だという。

 言葉でいうだけでは始まらない。まずは、実践的な、企画書を書く作業をしてみよう。そうすることにより、何かが見えてくるに違いない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年5月 4日 (水)

『滝山コミューン一九七四』

2011年4月23日 『滝山コミューン一九七四』原武史 講談社文庫
4月23日、東久留米市にある成美会館に、原武史の講演「滝山滝山と団地」を聞きに行った。
 母校の地元OB会が主催した講演会であった。発足当時からOB会の会員になっているのだが、出席したのははじめてである。校歌や応援歌を歌うというOB会の集まりが苦手ということもあって、この種の会合に参加することは少ないのだが、今回は、原の『滝山コミューン 一九七四』を読んで、感じることが多々あったので、原の話しを直接聞いてみたいと思った。

 原武史は、東久留米市の滝山にあるマンモス団地で小学生時代を過ごした。そこでは、自由で、民主的な教育が試みられていた。原は、逃げ場のなかった学校での生活を、原自身の日誌、資料、記憶をもとに、詳細に追体験をしていく。
 生徒の全員が民主的に参加する試みとして行われた「班競争」「代表児童委員会」「林間学校」等々の学校生活である。
 この本の面白さは、滝山団地にある第七小学校で行われていた学校教育、要するに全共闘世代の教員と滝山団地に住む児童、七小の改革を進めた母親たちが作りあげていった地域共同体(コミューン)を、自己の逃げ場のなかった生活を描きつつ、広大なアパート群からなる団地の形成を地域論として論じ、原自身が受けることになった教育を戦後の教育の潮流の中で位置づけようとしているところにある。

 私もまた東久留米市に20数年住んでいる。西東京市にあるひばりヶ丘駅から5-6分の住宅街の一画に我が家があるのだが、南の方に歩いて行くと、日本住宅公団の大規模団地の先駆けとなったひばりヶ丘団地がある。中島航空機田無製造所の跡地にひばりヶ丘団地ができたのが1959年のことである。今では、狭い、汚いの代名詞のような「団地」であるが、できた当初は、鉄筋コンクリート造、ステンレスの流し、スチールのサッシ、水洗式トイレなどの近代的な住宅として羨望の的であった。団地ができたときに、西武池袋線(昔は、武蔵野線といったらしい)の田無町駅からひばりヶ丘駅に駅名が変わった。
 こども心に、いかにも新興住宅地のような名称変更に違和感を感じた記憶がある。今の場所に住むようになり、自由学園の裏、東久留米駅よりの小さな沢があり、沢沿いが崖になっているので、「丘」という言葉にはなんとなく納得しているのだが、ひばりがいないのに、「ひばり?」という気分はなくならない。近くの東大農場に田んぼがあるのに「田無?」と似たようなものかと思っている。
 
 ワンマン支配で西武グループを造りあげた堤康次郎、堤義明は、全国の土地を次々に買収していったが、東急を創業した五島慶太のように、西武線沿線に学園都市の建設に失敗し、自社の西武池袋線、西武新宿線等の沿線に住宅地を開発して独自の文化圏を作ろうとはしなかった。堤清二の池袋発のパルコ文化は、東急の街であった渋谷を席巻したが、西武線のある西の方には波及していかなかった。
 その結果、西武線の駅前は、戦後もなお古い商店や狭い路地が残り、その周辺には武蔵野の面影を残す雑木林や農村が残った。今、ようやく、駅前の再開発が進みつつあるが、画一的なつまらない街になりつつあるともいえる。
 雑多な文化が息づく中央線沿線、近代的な街作りが進んでいった東武東上線に挟まれた西武池袋線・新宿線は取り残された感があるのだが、それゆえに、武蔵野の雑木林的な自然が残ったともいえる。

 原が住んでいた滝山団地は、西武池袋線の東久留米駅や西武新宿線の花小金井駅が最寄り駅となるが、バスや自転車を使わなければ駅にいくことができない。私の住んでいるところからでも、自転車にのって30分近くかかるので、私には、遠くにある広大な団地という印象が強い。たまに、団地のはずれにあるホームセンターに大工用品を買いにいく程度である。
 
 滝山団地は、会社に通勤する夫がでかけると、昼間は専業主婦の妻とこどもたちだけの世界があり、その中心に原たちが通っていた東久留米第七小学校があった。
 1970年代、七小を舞台に、全共闘世代の教員と滝山団地に住む児童、そして、七小の改革に立ち上がったその母親たちで形成された地域共同体を、原は「滝山コンミューン」と名付け、そこで行われていた教育を、自らの体験をもとに振り返り、位置づけようとしている。
 
 私は、1962年生まれの原よりも、一世代上の全共闘世代であり、団塊の世代である。原の書こうとしている「コンミューン」の位置づけの仕方、特に全共闘世代というくくり方、くくられ方にには違和感を感じながらも、原がこの本の中でしつこく繰り返す、原自身の七小の生活の中で感じ続けた逃げ場のない違和感・疎外感には、私自身が横浜の新興住宅地の小学校で、担任の教師にいじめられた苦い思い出に共振していた。

 原は、原自身の七小の生活を、団地形成という地域論と「集団を民主的なものにするのはあくまでも集団自身であり、子どもたちである」「児童は教師から正しい指導を受ければ必ず集団の担い手としての自覚をもち、自ら集団を変えていく」とする日教組の研究団体である全国生活指導研究協議会(全生研)の影響を受けた教師たちにより行われた学校教育の流れの中で、分析し、語ろうとしている。
 新聞記者から政治学者となった原の団地形成論は、滝山団地を取り巻く周辺地域を俯瞰したもので、私が現在住む東久留米という街をどうとらえていく示唆に富んでいるのだが、原自身が小学校で受けた教育に関してどのように総括し、俯瞰しているのかについては、きわめて曖昧である。原自身は、滝山団地の小学校生活に違和感・疎外感を味わい、小学校卒業後に団地を脱出している。原にとっての救いは、都内の大手進学塾に鉄道に乗って通うことであった。その後、原は『鉄道ひとつばなし』など鉄道に関する本を何冊か出している。

 原は、この本を書くにあたって、当時の小学校時代の同級生や教師たちにインタビューをしているのだが、いささか歯切れが悪い。そこには、原が「滝山コミューン」と名付けた地域共同体において原が感じ続けたことが書かれているが、同級生や教師たち、そして、その母親たち、父親たちが当時を何を思い、感じていたのか、さらには、現在、どうしているのか、当時を振り返って何を感じているのかということについては、踏み込んでいない。
 ここに、踏み込まない限り、この本は、社会学的・政治学的な分析に欠けた原個人の思いでの域をでていないといわざるを得ない。

 講演会での最後にその点を質問をした。原氏は、滝山団地のその後については若干触れていたが、同級生や教師たちがまだ健在なので、書くことができないとしていた。
 私自身、この本を日教組批判の書として単純にとらえることは躊躇している。原自身、全生研の教育手法は日教組の中では少数派であったと書いている。
 ただ、原自身は、七小でこのような教育が行われていたと断定しているのであるから、地域共同体にどのような影響を与えたのかということを書くべきであるし、さらには、同級生や教師たちの意見を聞いてみたいと思っている。

 原は、この本の冒頭に、ドイツの法学者・政治学者であるカール・シュミットの著作を引用している。
 「あらゆる現実の民主主義は、平等のものが平等に取り扱われるというだけではなく、その避くべからざる帰結として、平等ではないものは平等には取り扱われないということに立脚している。すなわち、民主主義の本質をなすものは、第一に同質性ということであり、第二に・・・必要な場合には・・・異質的なものの排除ないしは絶滅といことである。」
 カール・シュミットは、ワイマール憲法を批判し、ナチに協力したと評される学者であるが、この言葉は、日本の右翼や左翼はもちろん、私たちが共通に有する意識を示唆しているといえる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2011年4月 | トップページ | 2011年6月 »