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2011年5月 4日 (水)

『滝山コミューン一九七四』

2011年4月23日 『滝山コミューン一九七四』原武史 講談社文庫
4月23日、東久留米市にある成美会館に、原武史の講演「滝山滝山と団地」を聞きに行った。
 母校の地元OB会が主催した講演会であった。発足当時からOB会の会員になっているのだが、出席したのははじめてである。校歌や応援歌を歌うというOB会の集まりが苦手ということもあって、この種の会合に参加することは少ないのだが、今回は、原の『滝山コミューン 一九七四』を読んで、感じることが多々あったので、原の話しを直接聞いてみたいと思った。

 原武史は、東久留米市の滝山にあるマンモス団地で小学生時代を過ごした。そこでは、自由で、民主的な教育が試みられていた。原は、逃げ場のなかった学校での生活を、原自身の日誌、資料、記憶をもとに、詳細に追体験をしていく。
 生徒の全員が民主的に参加する試みとして行われた「班競争」「代表児童委員会」「林間学校」等々の学校生活である。
 この本の面白さは、滝山団地にある第七小学校で行われていた学校教育、要するに全共闘世代の教員と滝山団地に住む児童、七小の改革を進めた母親たちが作りあげていった地域共同体(コミューン)を、自己の逃げ場のなかった生活を描きつつ、広大なアパート群からなる団地の形成を地域論として論じ、原自身が受けることになった教育を戦後の教育の潮流の中で位置づけようとしているところにある。

 私もまた東久留米市に20数年住んでいる。西東京市にあるひばりヶ丘駅から5-6分の住宅街の一画に我が家があるのだが、南の方に歩いて行くと、日本住宅公団の大規模団地の先駆けとなったひばりヶ丘団地がある。中島航空機田無製造所の跡地にひばりヶ丘団地ができたのが1959年のことである。今では、狭い、汚いの代名詞のような「団地」であるが、できた当初は、鉄筋コンクリート造、ステンレスの流し、スチールのサッシ、水洗式トイレなどの近代的な住宅として羨望の的であった。団地ができたときに、西武池袋線(昔は、武蔵野線といったらしい)の田無町駅からひばりヶ丘駅に駅名が変わった。
 こども心に、いかにも新興住宅地のような名称変更に違和感を感じた記憶がある。今の場所に住むようになり、自由学園の裏、東久留米駅よりの小さな沢があり、沢沿いが崖になっているので、「丘」という言葉にはなんとなく納得しているのだが、ひばりがいないのに、「ひばり?」という気分はなくならない。近くの東大農場に田んぼがあるのに「田無?」と似たようなものかと思っている。
 
 ワンマン支配で西武グループを造りあげた堤康次郎、堤義明は、全国の土地を次々に買収していったが、東急を創業した五島慶太のように、西武線沿線に学園都市の建設に失敗し、自社の西武池袋線、西武新宿線等の沿線に住宅地を開発して独自の文化圏を作ろうとはしなかった。堤清二の池袋発のパルコ文化は、東急の街であった渋谷を席巻したが、西武線のある西の方には波及していかなかった。
 その結果、西武線の駅前は、戦後もなお古い商店や狭い路地が残り、その周辺には武蔵野の面影を残す雑木林や農村が残った。今、ようやく、駅前の再開発が進みつつあるが、画一的なつまらない街になりつつあるともいえる。
 雑多な文化が息づく中央線沿線、近代的な街作りが進んでいった東武東上線に挟まれた西武池袋線・新宿線は取り残された感があるのだが、それゆえに、武蔵野の雑木林的な自然が残ったともいえる。

 原が住んでいた滝山団地は、西武池袋線の東久留米駅や西武新宿線の花小金井駅が最寄り駅となるが、バスや自転車を使わなければ駅にいくことができない。私の住んでいるところからでも、自転車にのって30分近くかかるので、私には、遠くにある広大な団地という印象が強い。たまに、団地のはずれにあるホームセンターに大工用品を買いにいく程度である。
 
 滝山団地は、会社に通勤する夫がでかけると、昼間は専業主婦の妻とこどもたちだけの世界があり、その中心に原たちが通っていた東久留米第七小学校があった。
 1970年代、七小を舞台に、全共闘世代の教員と滝山団地に住む児童、そして、七小の改革に立ち上がったその母親たちで形成された地域共同体を、原は「滝山コンミューン」と名付け、そこで行われていた教育を、自らの体験をもとに振り返り、位置づけようとしている。
 
 私は、1962年生まれの原よりも、一世代上の全共闘世代であり、団塊の世代である。原の書こうとしている「コンミューン」の位置づけの仕方、特に全共闘世代というくくり方、くくられ方にには違和感を感じながらも、原がこの本の中でしつこく繰り返す、原自身の七小の生活の中で感じ続けた逃げ場のない違和感・疎外感には、私自身が横浜の新興住宅地の小学校で、担任の教師にいじめられた苦い思い出に共振していた。

 原は、原自身の七小の生活を、団地形成という地域論と「集団を民主的なものにするのはあくまでも集団自身であり、子どもたちである」「児童は教師から正しい指導を受ければ必ず集団の担い手としての自覚をもち、自ら集団を変えていく」とする日教組の研究団体である全国生活指導研究協議会(全生研)の影響を受けた教師たちにより行われた学校教育の流れの中で、分析し、語ろうとしている。
 新聞記者から政治学者となった原の団地形成論は、滝山団地を取り巻く周辺地域を俯瞰したもので、私が現在住む東久留米という街をどうとらえていく示唆に富んでいるのだが、原自身が小学校で受けた教育に関してどのように総括し、俯瞰しているのかについては、きわめて曖昧である。原自身は、滝山団地の小学校生活に違和感・疎外感を味わい、小学校卒業後に団地を脱出している。原にとっての救いは、都内の大手進学塾に鉄道に乗って通うことであった。その後、原は『鉄道ひとつばなし』など鉄道に関する本を何冊か出している。

 原は、この本を書くにあたって、当時の小学校時代の同級生や教師たちにインタビューをしているのだが、いささか歯切れが悪い。そこには、原が「滝山コミューン」と名付けた地域共同体において原が感じ続けたことが書かれているが、同級生や教師たち、そして、その母親たち、父親たちが当時を何を思い、感じていたのか、さらには、現在、どうしているのか、当時を振り返って何を感じているのかということについては、踏み込んでいない。
 ここに、踏み込まない限り、この本は、社会学的・政治学的な分析に欠けた原個人の思いでの域をでていないといわざるを得ない。

 講演会での最後にその点を質問をした。原氏は、滝山団地のその後については若干触れていたが、同級生や教師たちがまだ健在なので、書くことができないとしていた。
 私自身、この本を日教組批判の書として単純にとらえることは躊躇している。原自身、全生研の教育手法は日教組の中では少数派であったと書いている。
 ただ、原自身は、七小でこのような教育が行われていたと断定しているのであるから、地域共同体にどのような影響を与えたのかということを書くべきであるし、さらには、同級生や教師たちの意見を聞いてみたいと思っている。

 原は、この本の冒頭に、ドイツの法学者・政治学者であるカール・シュミットの著作を引用している。
 「あらゆる現実の民主主義は、平等のものが平等に取り扱われるというだけではなく、その避くべからざる帰結として、平等ではないものは平等には取り扱われないということに立脚している。すなわち、民主主義の本質をなすものは、第一に同質性ということであり、第二に・・・必要な場合には・・・異質的なものの排除ないしは絶滅といことである。」
 カール・シュミットは、ワイマール憲法を批判し、ナチに協力したと評される学者であるが、この言葉は、日本の右翼や左翼はもちろん、私たちが共通に有する意識を示唆しているといえる。

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