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2011年11月12日 (土)

『蜷川幸雄の子連れ狼・伝説』蜷川 幸雄

2011年11月10日 『蜷川幸雄の子連れ狼・伝説』蜷川 幸雄  小池書院

『蜷川幸雄の子連れ狼・伝説』を仕事場の近くの古書店で購入した。蜷川宏子の『蜷川ファミリー』を読む前のことである。
 黒地の表紙に、劇場の座席に座り、肩肘をついている蜷川幸雄のモノクロの写真、型抜きをした表紙の小さな窓に、赤地に『蜷川幸雄の子連れ狼 伝説』とシンプルな文字が見える。洒落た装丁である。蜷川幸雄と子連れ狼という意表のついた組み合わせが気になったこともある。装幀は、資生堂のデザイナーをしている澁谷克彦によるものである。
 10年以上まえの1998年に出版された本なので、出版当時には話題になったのかもしれないが、この本の存在を知らなかった。
 蜷川を「子連れ狼」に引き合わせたのは若山富三郎である。72年から74年にかけて、若山富三郎主演の子連れ狼の映画が6本あるが、三隅研次が監督した第1作には、蜷川の妻である真山知子(蜷川宏子)が出演し、ヌードになっている。
 蜷川は、60年代末期から、70年代にかけて、「先達と違う方法で現在を脱出しようとしたので、ごくらとはまったく異なった視点から」「若山富三郎という人の不合理のかたまりのような個性」に惹かれて、『極道シリーズ』で人気のあった若山と付き合っていた。そして、小池一夫原案の『子連れ狼』も不合理の闇から立ち上がって遠景の中から近づいてきたのだという。
 ミステリと映画、マンガ(劇画)は作劇法など、非常に近い存在なので、ミステリが好きな者にとっては、小池一夫の原作、小島剛夕の画になる劇画は気になる存在であったし、若山富三郎主演の映画、萬屋錦之介主演のテレビ・シリーズを楽しんだ記憶がある。
 実際のところ、編集者からの勧めがあって、『子連れ狼』を読み、この本を書いたようなので、『子連れ狼』を読んでいて書いたとは違うような気がするのだが、どうであろうか。
 ただ、劇画の分析の仕方が、演劇の演出家らしく、興味深かった。
 劇画の場合、コマワリが決まっているのではなく、ストーリーの流れにそって、コマ数が変わり、ときには一コマであったりもし、一話のカット数が261カット、240カット、そして、288カットと、「短いカットを畳み込むように描いてゆく手法と、一つのカットの息を長くしながら強う異画面を作ってゆく手法が、実に巧みに使い分けられているいる。」(p20)とし、ロングショットからバストショットにつないでいく巧さに触れて、「優れた劇画の上に、自分たちの想像力を加えることで、ぼくらは自分たちの『子連れ狼』を完成させてゆくのである。」(p36)とする。
 ここらあたりは、演劇の場合と同一俎上にあり、蜷川の演劇のとらえ方が垣間見えてくる。演劇そのものを語るより、劇画を間におくことによって、蜷川自身の演劇論が素直に聞こえてくるような気がしながら、この本を読んでいた。
 「小池一夫の作劇術の巧みさは、柳生一族との闘いを、ときどきしか描かないところにあるように思われる。」(p46)
 「劇画は映像ではないから、何秒かというのは、見る者の固有の生理による。しかし「流れ影」を例にとると、柳生烈堂と拝一刀の決闘のシーンのカット割りと画面のサイズ、画面の形は、絶妙の選択がなされているのだ。それを見る者は、左右に目を配り、下へ下へと目を下げてゆく。このリズムが、やがて見る者の生理となって、身体にこの物語のリズムを刻みつけてゆくことになるのだ。右、左、下、下。いつしかぼくらは観念のリズムと身体のリズムを表させて、あたかも映像の画面を見ている時と同じような快感の流れにのってゆくことになる。やがてぼくらは、素速くページをめくることになってゆく。速く、速く。」(p54)
 そして、蜷川は、『子連れ狼』に触発されたのかどうかはわからないが、最近の若者の演技の現在は、「美しく語りすぎる」とし、「再び巨大な物語が求められる日がくるような気がする。もちろん、その巨大な物語への願望は、私たちの想像力の湯たくさんが問われているのだ。」(p64)としている。
 しかし、どうなのだろうか、「巨大な物語への願望」自体、消費財として作られ、与えられている若者は、巨大な物語への願望が、美しい物語として実現されているという錯覚に陥っていて、心を奮い立たせる演劇や劇画がなど、存在しなくなっているような気がするのだが、どうあろうか。
 劇画から演劇へ、劇画から演劇へと、この本を読みながら、蜷川の思考から、様々な感慨が触発されていく自分を感じながら、楽しんだ1冊である。

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2011年11月 5日 (土)

『蜷川ファミリー』 蜷川宏子

2011年10月15日 『蜷川ファミリー』 蜷川宏子 朝日新聞出版
 『蜷川ファミリー』を書いた蜷川宏子は、演出家蜷川幸雄の妻というよりも、若い人にはフォトグラファー蜷川実花のお母さんといった方が通りが早いかもしれない。もっとも、私より少し上の男性にとっては、悪女役などで映画・テレビで活躍していた若かりしころの女優真山知子を思い出す人も多いし、50代前後の女性には、キルト作家として知る人も多い。
 昨年、同じ町内に住む蜷川幸雄氏が文化勲章を受章したときに、自治会の広報紙「かわら版」の取材にお伴して、家に伺ったことがある。幸雄氏の仕事部屋に案内していただいた宏子さんの気さくな応対が印象的であった。
 その宏子さんが、『蜷川ファミリー』という本を出したので、早速、読んでみた。冒頭から、実花さんの話しになり、臆面もなく、「娘の作品を大勢の方々が見て、褒めてくださるのを耳にすること」が、「母親冥利につきます」と言い切っている。200ページ程度の薄い本だが、全編、このような調子につきあうのはしんどいなというのが最初の印象であった。
 実花さんの生まれたころの幸雄氏の育児の様子から、宏子さんの出自の話しとなり、宏子さんたちが同じ町内に住むに至った経緯が書かれている。昨年、幸雄氏から聞いた話と少し異なっていた。
 宏子さんのお父さんの生江健次氏は、文藝春秋社の社員であったが、1945年7月にフィリピンで亡くなっている。宏子さんが4歳のときである。健次氏の父、宏子さんの祖父である生江孝之氏は、青山学院の神学部を卒業し、キリスト教を基盤にした社会事業に尽力し、日本女子大の教授、青山学院の理事長などの職にあったということで、自由学園ともつながりがあったという関係から、自由学園の近くに所有していた土地を宏子さんが相続したということである。
 宏子さんのお母さんは、手芸家の生江美千枝さんである。夫を亡くしたお母さんは手芸家として自立するのだが、母親との確執もあり、通っていた学校にも違和感を感じていたという。小さいころから芝居が好きだったのも、「虚構の世界に入ることが、つらい現実を生きる小さな私のサバイバル方法」だったからではないとする。
 1959年宏子さんは、東映のニューファイスとなる。同期には、千葉真一や太地喜和子がいた。オートバイに乗っているシーンの撮影中に、けがをし、脚にやけどの跡が残ってしまい、着物を着る時代劇であれば脚を隠せるということで、京都の撮影所に行かされるが、古いしきたりが残る撮影所に嫌気がさし、すぐに東映をやめてしまい、劇団青俳に入団することになる。
 劇団青俳は、それまでの新劇のあり方に疑問をもった各劇団の若手俳優、岡田英次(元新協劇団)、金子信雄(元文学座)、木村功(元俳優座)たちが結成した劇団である。宏子さんが入団したときには、西村晃、宮本信子、石橋蓮司らがおり、後に夫になる蜷川幸雄氏がいたのである。けがをして、東映をやめることがなければ、幸雄氏と出会うこともなかっただから、人間の運命はわからないものである。
 青俳の俳優は、テレビや映画で活躍するようになり、今では、私たちもよく知る俳優となっているが、60年代から70年代にかけては、まだ、日本全体が貧しい時代であったし、懸命に生きていた時代でもあった。
  実花さんが生まれたころは、俳優として稼ぎのいい宏子さんが、映画やテレビの撮影をし、幸雄氏が実花さんの面倒をみていたという。
 70年代前半、幸雄氏は、蟹江敬三、石橋蓮司らと「櫻社」を結成し、反体制的なアングラ。小劇場演劇の演出家として、一部の若者たちに熱狂的に支持されていたのだが、1976年、日生劇場で上演された『ロミオとジュリエット』の演出を引き受ける。商業演劇にかかわるということは、演劇仲間や若いファンにとっては、「体制に日和った」裏切りとなる大きな決断であった。この決断が、「世界のニナガワ」と呼ばれる蜷川幸雄となる契機となった。
幸雄氏は、「櫻社」を解散し、演出のために通う劇場の周辺で誹謗・中傷のビラを巻かれたりとしているのだが、その中、幸雄氏は、2歳になる実花さんを連れて、打ち合わせや稽古場に連れて行った。生涯の道を決めることになる時のことであるが、幸雄氏からすると仕方のないことであったのかもしれないが、幸雄氏の気負いのなさの表れかともとれるし、気負いがそうさせたのではないかとも思われる。
 実花さんも、また、撮影の現場に、幼い息子を連れて行く。宏子さんは、孫のお守りに撮影に同行し、孫のためにキルトを作るのを楽しみにしているという。
 文化勲章を受章した幸雄氏の取材に行く際に、お祝いに何がいいかと話していたところ、我が家の娘が、実花さんがブログに、幸雄氏が、孫に、トミカを与えるのが楽しみとしていると書いているという。お祝いに差し上げた「トミカ」の入った紙包みを手にして、仕事場の入り口に立つ幸雄氏の笑い顔の写真がある。私が撮ったのだが、好々爺の幸雄氏である。我ながら、いい写真だと思っている。
 数年前、実花さんが、朝日新聞のコラムに、「1.いつでもどこでも男を捨てられる女であれ」「5.従順なだけの女になるな」などとする幸雄の教育方針「蜷川家の十か条」を書いて、話題になった。112頁に全文が掲載されている。
 こう言い切れる父親っていいなと思う。もっとも、この方針にしたがい、父親を乗り越えんとする実花さんに対し、次女の麻実さんは普通の生活を選び、この家訓は実花さん用といっているらしい。
 実花さんの写真といえば、最近変わってきているようであるが、独特な極彩色の使いかたにある。宏子さんのパッチワークもまた、原色を使った派手なものであるが、宏子さんのお母さんの手芸も原色を使ったものであったという。
 軽いタッチで、蜷川ファミリーの今までを書いているが、世の中と対峙してきた幸雄・宏子夫婦の生き様、芝居の世界がさりげなく垣間見える本であった。

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