« 2012年1月 | トップページ | 2012年7月 »

2012年5月29日 (火)

『閉じこもるインターネット――グーグル・パーソナライズ・民主主義』

2012年5月18日 『閉じこもるインターネット――グーグル・パーソナライズ・民主主義』  イーライ・パリサー  早川書房

 「あなたが見ているネットは、わたしが見ているネットと同じではない。
    広告から検索結果まで、あらゆる情報がカスタマイズされるいま、グーグル、フェイスブック、ツイッターの未来について考えることは『政治』そのものなのだ。」
   
 『閉じこもるインターネット』の帯に書かれている東浩紀の文章が、この本の内容を端的に言いあらわしている。
 毎日のように、グーグルで検索し、アマゾンで本をチェックしている。
 グーグルで法律に関わることを検索していると、上の方に、法律事務所の広告がでてくる。この弁護士がこのような宣伝のしかたをしているのかと思うことがあるが、クリックすることもないし、目障りに感じていることの方が多い。
 検索しているときも、でてくる事項も、何となく偏っているような気がすることが多くなった。20-30と検索していかないと、知りたいと思った未知のことがらがでてこない。
 アマゾンの場合は、探している本のテーマや著者の一覧や、関連事項がでてくるので、利用することが多いが、アマゾンに注文することはない。書店で本を買う。急ぐときは、書店に電話をいれ、在庫を確認し、取りにいく。時間があるときは、書店の棚を覗いてみる。別の視点から関連書がみえてくる、ときには、探している本とは別の本に目がいき、衝動買いをする。
 アマゾンの場合も本の広告が出てくる。この広告がなぜでるのだろうかと思うことがあるが、前に検索した事項の関連であると気づく。ただ、私の場合は、自分の趣味や関心で検索するのではなく、リサーチがてら検索していることも多いので、出てくる広告が目障りになる。しばらく、スクロールしないと、ほしい情報に届かない。
 ネットを利用していると、無為に時間を過ごしていると、感じることが多くなった。

 インターネットが利用されるようになったとき、私たち一人一人が情報を情報を享受し、発信できる手段を得たということがもてはやされたし、すごく手軽に、情報を集め、発信できるようになった。最初のころのグーグルは、シンプルでよかった。検索した情報を取捨選択しているうちに、自分の考えの方向性を定め、関連する書籍を読んで確認し、思索することができた。
 ところが、最近、グーグルもアマゾンも、個人の志向・思考・嗜好にあわせて情報を提示してくるようになった。膨大な情報量を個人が処理するには限界があるので、それを利用者一人一人にあわせてコンピューターが情報を整理する。
 これをカスタマイズ化、パーソナライズ化という。
 「新しいインターネットの中核をなす基本コードはとてもシンプルだ。フィルターをインターネットにしかけ、あなたが好んでいるらしいもの-あなたが実際にしたことやあなたのような人が好きなこと-を観察し、それをもとに推測する。これがいわゆる予測エンジンで、あなたがどういう人でなにをしようとしているのか、また、次になにを望んでいるのかを常に推測し、推測のまちがいを修正して精度をたかめてゆく。このようなエンジンに囲まれると、我々はひとりずつ、自分だけの情報宇宙に包まれることになる。わたしはこれをフィルターバブルと呼ぶが、その登場により、我々がアイデアや情報と遭遇する形は根底から変化した。」(p19)
 著者は、次のことを指摘する。
 ①フィルターバブルにより、情報の共有が体験の共有を生む時代において、自分と同じ価値観や考え方など狭い情報にのみ出会うことになり、一人一人が孤立していく。
 ②(朝日新聞、産経新聞、赤旗などの新聞を読む場合など、)多くの人は接するメディアが政治的に偏向していることをわかったうえで読んでいるが、グーグルの場合は、利用者に提示する結果がどうしてそうなっているのかも教えないし、自分に対する想定が正しいのか、まちがっているのもわからない。さらには、自分に対する想定があることすら気がつかないことがあるとする。
 ③ そして、パーソナライズされたフィルターの場合、自ら選択するのではなく、向こうが勝手に選んでくる。しかも、フィルターはウェブサイトに利益をもたらすために使われている。

 私たちが便利、魅力があると利用しているものの背景には落とし穴があるということである。朝、新聞の一面や政治欄からじっくり読む人は少ないかもしれないが、見出しに目がいくことがあるし、ときには見出しにひかれて読むことがある。新聞は、公平、公正な視点から、記事をレイアウトし、見出しをつくっているが、それでも、偏向しているという批判を受ける。私たちは、そのようなことを考えながら、読むものを選択している。時には、新聞社の記事を比較することも容易である。
 しかし、ネットの場合、私たちではなく私向きに情報をパーソナライズしているのか知りようがないし、他と比較する術がない。

 フェイスブックの場合も、「いいね」と反応することは一見面白そうな仕組みだが、よく考えると、世の中を「白か黒か」で単純に色分けする行為は、対立を激化させたり、多数が少者を押しつぶすことになる。自分で考えずに、判断を他人に頼るようになる。

 私たちが発信する情報量は、膨大なスピードで増えている。グーグルがデータ処理のために必要なコンピューター容量も膨大となり、電力消費も飛躍的に増えており、とどまることを知らない。地球温暖化に対する影響も大きいだろう。

 『閉じこもるインターネット』は、私たちの世界が広くなる手段と思えたインターネットが、人を支配し、コントロールする手段に変わりつつあるということに警鐘をならす。
是非、一読してほしい本である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年5月15日 (火)

『下り坂では後ろ向きに――静かなスポーツのすすめ』

2012年5月10日『下り坂では後ろ向きに――静かなスポーツのすすめ』 丘沢 静也

 紙面に並んでいる活字を先入観から勝手に読んでいることがある。タイトルの『下り坂では後ろ向きに』を文字通り、「人生の下り坂に入った者は後ろ向きに生きろ」、過激なスポーツではなく「スローなスポーツ」をすすめる内容かなと思いながら、この本を手に取った。
 著者の丘沢静也は、首都大学東京で教鞭をとるドイツ文学の学者であるが、プールで泳ぎ、公園で走ることを習慣としている。運動と無縁であった丘沢は、運動を始めて人生が音を立てて変わったとするのだが、毎日、距離を決めて泳いだり、走ることはしない。
 「心とからだが身軽になれば、記録も、記憶も、感動も必要ない」「鈴かなスポーツ」を勧めている。そして、タイトルの文字通り、「下り斜面の芝生では、後ろ向きに走る」という。どこかで、普段とは異なる身体の動きをするために、後ろ向きに歩くことを勧める本を読んだ記憶がある。周囲の人と接触する危険のない芝生の上であれば、後ろ向きに歩いても躓いてもけがをする心配はない。

 これだけの話であれば、タイトルをみて、最初の数ページを読むだけで十分なのだが、スポーツ全般にわたる考察がおもしろかった。
 「競技スポーツの文法は、競争社会における仕事の文法に似ている。私の考える『静かなスポーツ』の文法は、ライフ(生命・生活・人生)の文法だ。」として、競技スポーツの文法だけが運動の文法だと思っている人に、『静かなスポーツ』を勧めている。(p7)
 「『より速く、より強く、より高く』は、変わることや新しさに価値があると考える立場から生まれたスローガンだ。競争社会の合い言葉である。しかし、3.11後、私たちが痛感したのは、日常のありがたさだった。病気になって、はじめて健康のありがたさに気づくように、日常がなくなって、変わらないこと、新しくないものの大切さに気づいた。」(p12)

 そして、「小説家の書いた『走ることについて語るときに僕の語ること』を読んでいて、不思議に思ったのは、走る楽しさはほとんど伝わってこないことだ。なぜだろう?」という。(p149)
 小説家とは、村上春樹のことである。村上春樹が走ることを趣味としているのは知っていた。彼らしい趣味かなと感じながらも、若干の違和感もあった。彼のストイックなまじめさのあらわれかもしれない、と思うと、違和感が消えていった。

 「『スポーツ』の語源は『気晴らし(disport)』である。『競争』の意味はない。静かなスポーツをスポーツの王様と考えるなら、競技スポーツは、スポーツの特殊な一部にすぎない。」(p18)
 私たちは、スポーツ=健康と考えているが、アスリートの行っている競技スポーツは身体そして、精神を酷使する心身の活動で、健康から一番遠い位置にあるかもしれない。私たちは、競技スポーツを観て楽しんでいるのは、古代ローマ時代、剣闘士が命をかけて闘う様子を眺めて楽しんでいるのと同じかもしれない。
 「見世物の競技スポーツを語るとき、ドラマ仕立てで『魂』や『精神』がもてはやされる。」(p22)
 「考えたり、感じたりできるのは、呼吸をしているからだ。呼吸をしながらの運動を有酸素運動という。呼吸をしないでやる運動は、無酸素運動。無酸素運動は、有酸素運動とちがって、キョロキョロよそ見したり、おしゃべりする余裕がない。視野が狭くなる。がんばっているから偏狭になりやすい。」(p24)として、丘沢は、競技スポーツをすることは、いわば、無酸素運動をしているのではないかとし、身体のおもむくままに身体を動かす『静かなスポーツ』を勧め、ニーチェの口癖は、「戸外で自由に運動しながら生まれたのではないような思想は信用するな」であったとする。
 
 「体育も90年代に教養課程の必修からはずされたが、数学とならんで、ぜひ必修にしたいものだ。もっとも、『体育』ではなく、『スポーツ』として。」(p59)
 体育はスポーツ嫌いをつくっている面がある。
 『静かなスポーツ』は、身体を動かすことの楽しさを教えてくれる。
 丘沢は、歯を食いしばってがんばるのではなく、だらだら走ることを勧める。風の声、虫の声、鳥の声を聞きながらだらだら走っているとちょっとぐらい腹立たしいことは許せるし、思いがけないことを思いつくこともあるとして、音楽を聴くなら、iPODではなく、頭のなかで鳴らせばいいとしている。
 売り上げ増の叱咤する家電量販店の大音量のBGMは、「スポーツ→アップテンポの音楽」を連想させるともいうのだが、そういえば、幼稚園や運動会の音楽に通じるような気がする。

 「『言葉が軽くなった』と、よく言われるが、言葉はもともと軽い。『葉っぱ』は軽いのが取り柄。軽くなったのは、言葉に重みをあたえる行動や態度のようだ。『言葉が軽くなった』はレトリックである。」(p80) 
 
 「素朴な物語を求めて、私たちは競技スポーツをやったり、見物したりするのかもしれない。」「白黒がはっきりついて、素朴なまでに潔い。競技スポーツは、わかりやすい物語として読むことができる。」(P97)

 行動や態度の伴わない言葉を使い、白黒をつけようとする世界に、私たちは生きているといっても過言ではない。
 『静かなスポーツ』の勧めは、身体の活動から身体を動かしながらの思索の世界へと入っていき、最後にスポーツに戻ってくる。

 最後に、著者はいう。
 仕事の延長戦、競技スポーツの流儀でやる気晴らしと脱・競技スポーツの流儀でやる気晴らしがある。どちらをするかは自由であるが、スポーツが気張らしであるのであれば、競技スポーツの文法から離れて『静かなスポーツ』をして、『生きる』ことを感じることこそ大事なのではないかと。
 薄い冊子であるが、考えさせられることの多い本であった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2012年1月 | トップページ | 2012年7月 »