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2012年5月15日 (火)

『下り坂では後ろ向きに――静かなスポーツのすすめ』

2012年5月10日『下り坂では後ろ向きに――静かなスポーツのすすめ』 丘沢 静也

 紙面に並んでいる活字を先入観から勝手に読んでいることがある。タイトルの『下り坂では後ろ向きに』を文字通り、「人生の下り坂に入った者は後ろ向きに生きろ」、過激なスポーツではなく「スローなスポーツ」をすすめる内容かなと思いながら、この本を手に取った。
 著者の丘沢静也は、首都大学東京で教鞭をとるドイツ文学の学者であるが、プールで泳ぎ、公園で走ることを習慣としている。運動と無縁であった丘沢は、運動を始めて人生が音を立てて変わったとするのだが、毎日、距離を決めて泳いだり、走ることはしない。
 「心とからだが身軽になれば、記録も、記憶も、感動も必要ない」「鈴かなスポーツ」を勧めている。そして、タイトルの文字通り、「下り斜面の芝生では、後ろ向きに走る」という。どこかで、普段とは異なる身体の動きをするために、後ろ向きに歩くことを勧める本を読んだ記憶がある。周囲の人と接触する危険のない芝生の上であれば、後ろ向きに歩いても躓いてもけがをする心配はない。

 これだけの話であれば、タイトルをみて、最初の数ページを読むだけで十分なのだが、スポーツ全般にわたる考察がおもしろかった。
 「競技スポーツの文法は、競争社会における仕事の文法に似ている。私の考える『静かなスポーツ』の文法は、ライフ(生命・生活・人生)の文法だ。」として、競技スポーツの文法だけが運動の文法だと思っている人に、『静かなスポーツ』を勧めている。(p7)
 「『より速く、より強く、より高く』は、変わることや新しさに価値があると考える立場から生まれたスローガンだ。競争社会の合い言葉である。しかし、3.11後、私たちが痛感したのは、日常のありがたさだった。病気になって、はじめて健康のありがたさに気づくように、日常がなくなって、変わらないこと、新しくないものの大切さに気づいた。」(p12)

 そして、「小説家の書いた『走ることについて語るときに僕の語ること』を読んでいて、不思議に思ったのは、走る楽しさはほとんど伝わってこないことだ。なぜだろう?」という。(p149)
 小説家とは、村上春樹のことである。村上春樹が走ることを趣味としているのは知っていた。彼らしい趣味かなと感じながらも、若干の違和感もあった。彼のストイックなまじめさのあらわれかもしれない、と思うと、違和感が消えていった。

 「『スポーツ』の語源は『気晴らし(disport)』である。『競争』の意味はない。静かなスポーツをスポーツの王様と考えるなら、競技スポーツは、スポーツの特殊な一部にすぎない。」(p18)
 私たちは、スポーツ=健康と考えているが、アスリートの行っている競技スポーツは身体そして、精神を酷使する心身の活動で、健康から一番遠い位置にあるかもしれない。私たちは、競技スポーツを観て楽しんでいるのは、古代ローマ時代、剣闘士が命をかけて闘う様子を眺めて楽しんでいるのと同じかもしれない。
 「見世物の競技スポーツを語るとき、ドラマ仕立てで『魂』や『精神』がもてはやされる。」(p22)
 「考えたり、感じたりできるのは、呼吸をしているからだ。呼吸をしながらの運動を有酸素運動という。呼吸をしないでやる運動は、無酸素運動。無酸素運動は、有酸素運動とちがって、キョロキョロよそ見したり、おしゃべりする余裕がない。視野が狭くなる。がんばっているから偏狭になりやすい。」(p24)として、丘沢は、競技スポーツをすることは、いわば、無酸素運動をしているのではないかとし、身体のおもむくままに身体を動かす『静かなスポーツ』を勧め、ニーチェの口癖は、「戸外で自由に運動しながら生まれたのではないような思想は信用するな」であったとする。
 
 「体育も90年代に教養課程の必修からはずされたが、数学とならんで、ぜひ必修にしたいものだ。もっとも、『体育』ではなく、『スポーツ』として。」(p59)
 体育はスポーツ嫌いをつくっている面がある。
 『静かなスポーツ』は、身体を動かすことの楽しさを教えてくれる。
 丘沢は、歯を食いしばってがんばるのではなく、だらだら走ることを勧める。風の声、虫の声、鳥の声を聞きながらだらだら走っているとちょっとぐらい腹立たしいことは許せるし、思いがけないことを思いつくこともあるとして、音楽を聴くなら、iPODではなく、頭のなかで鳴らせばいいとしている。
 売り上げ増の叱咤する家電量販店の大音量のBGMは、「スポーツ→アップテンポの音楽」を連想させるともいうのだが、そういえば、幼稚園や運動会の音楽に通じるような気がする。

 「『言葉が軽くなった』と、よく言われるが、言葉はもともと軽い。『葉っぱ』は軽いのが取り柄。軽くなったのは、言葉に重みをあたえる行動や態度のようだ。『言葉が軽くなった』はレトリックである。」(p80) 
 
 「素朴な物語を求めて、私たちは競技スポーツをやったり、見物したりするのかもしれない。」「白黒がはっきりついて、素朴なまでに潔い。競技スポーツは、わかりやすい物語として読むことができる。」(P97)

 行動や態度の伴わない言葉を使い、白黒をつけようとする世界に、私たちは生きているといっても過言ではない。
 『静かなスポーツ』の勧めは、身体の活動から身体を動かしながらの思索の世界へと入っていき、最後にスポーツに戻ってくる。

 最後に、著者はいう。
 仕事の延長戦、競技スポーツの流儀でやる気晴らしと脱・競技スポーツの流儀でやる気晴らしがある。どちらをするかは自由であるが、スポーツが気張らしであるのであれば、競技スポーツの文法から離れて『静かなスポーツ』をして、『生きる』ことを感じることこそ大事なのではないかと。
 薄い冊子であるが、考えさせられることの多い本であった。

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