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2012年7月 4日 (水)

『記憶のちぎれ雲 我が半自伝』 草森 紳一

2012年6月10日『記憶のちぎれ雲 我が半自伝』 草森 紳一 本の雑誌社

 大学のクラブ「推理小説同好会」の先輩である草森さんとは会ったことはない。
 草森さんが、亡くなったのは2008年3月20日であるが、その後しばらくしてから「偲ぶ会」が開かれた。草森さんの人柄を知りたいという興味もあり、先輩たちについていった。
 
 マンガ、広告、カメラと、幅の広い活動をしていたことは知っていたが、ミステリとは縁を切り、唐の詩人李賀(李長吉)などの世界に耽溺し、本に埋もれて、仙人のような生活をしているという噂が流れ、クラブのOB会にも顔を出すことはなかった。
 古書店で、『写真のど真ん中』などをみかけることがあったが、手にとることはあっても、買ってじっくりと読むことはなかった。
 2005年に、『随筆 本が崩れる』という新書がでた。一人暮らしのマンションで、風呂に入り、出ようとしたら、廊下に積んであった本が崩れて、風呂場から出ることができなくなり、如何にして、その危難から脱出できたかということを書いた本である。身近に起きたスリリングな話である。訪ねてくる人がいなければ、密室の中で死ぬという状況からの脱出行は、サスペンス小説さながらの面白さであった。

 真鍋博、古山高麗雄、田中小実昌、中原淳一・芦原邦子、伊丹一三との交遊から、記憶をもとに徒然なるままに書き綴っている。交遊といっても、数回しか会っていない人もいるのだが、一瞬の出会いの光景から、話が広がり、拡散していきそうになりながら、人物論として収斂していく筆致はみごとである。
 真鍋博は、星新一の小説の挿絵でおなじみのイラストレーターである。
 「真鍋博のイラストレーションをはじめて見たのは、昭和35年『朝日ジャーナル』に連載の『第七地下壕』である。」「『第七地下壕』の原題は、たしか『レベルセブン』、SF小説というよりは、近未来の原水爆の脅威と恐怖を描いた小説で、それに附された真鍋博の絵の描線は透明で、かつ鋭く、一度見ると忘れられないものだった。」(p10)
 
 私が、真鍋博のイラストに出会ったのは、ミステリマガジン(当時は、「エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン(EQMM)」といった。)のイラストであった。丁寧に、細密に描かれた都市の風景や人物は、一見、無機質なのだが、そこはかとない人間味がただよっているのが印象的であった。
 第2章の田中小実昌を知ったのも、EQMMの発行元である早川書房が発行していた早川ポケット・ミステリ(通称「ポケミス」)の翻訳者としてである。特に、カーター・ブラウンのアル・ウィラー警部シリーズの『死体置き場は花ざかり』やA・A・フェアのドナルド・ラム・シリーズの『寝室には窓がある』などの軽口の会話のやりとりを楽しんだ記憶がある。もっとも、中学生の私にとっては、お色気がちりばめられた場面に好奇心を惹かれて読んでいたのではあるが・・・。
 
 草森は、田中小実昌のことから、思いつくままに、大学時代に入っていた『推理小説同好会』のことやハードボイルドの話へと続いていく。
 「『推理小説同好会』には、文学部の生徒が余りいないところが、大いに氣にいった。文学部の連中には、推理小説を小馬鹿にしているところがあった。しかも、文学部の連中よりも、このクラブの仲間の方が広く本を読んでいて、単に推理小説マニアの集まりではなかった。」「どこか、みな変人のところがあり、彼等といると、氣がやすらいだ。上級生に紀田順一郎氏、大伴昌司がいたが、会合や旅行には、あまりでてこなかった。」(p114)
 この雰囲気は、10年ほど後輩となる私たちの時代にもそこはかとなく残っていた。

 紀田順一郎について、ウィキペディアは「慶應義塾高等学校時代、「映画芸術研究会」で大伴昌司と知り合う。慶應義塾大学時代に進学後、紀田らの入学2年前に仮結成されていたものを、田村良宏(後のSRの会会長)らが本格立ち上げした慶應義塾大学推理小説同好会(木々高太郎を会長)に、やはり大伴とともに参加。卒業後、大伴、桂千穂とともに、SRの会・東京支部を結成」としている。
 紀田さんが神奈川近代文学館の館長を勤めていたときに、推理小説同好会の会誌『論叢』のために寄稿された木々高太郎など、推理作家の自筆原稿を近代文学館に寄贈するために訪れたことがある。2008年頃のことである。
 大伴 昌司は、1936年生まれ、1973年で亡くなっている。37歳であった。SFマガジンでコラムを連載し、1966年から1972年にかけての『少年マガジン』の図解グラビアの企画構成は、私たちの世代に、大きな影響を与えた。『怪獣図鑑』を刊行し、「怪獣博士」と呼ばれ、怪獣ブームの立役者の一人である。大伴昌司賞は、夭折した大伴の遺族の意向で創設され、シナリオ作家協会と映画演劇文化協会の共催する新人シナリオコンクールの特別賞となっている。

 田中小実昌は、チャンドラーの『高い窓』、『湖中の女』を訳しているのだが、主人公マーロウの一人称で「おれ」といわせている。
 名訳といわれている清水俊二の『さらば愛しき女よ』や『大いなる眠り』では、「わたし」となっている。村上春樹が『さよなら、愛しい人』というタイトルで訳したときは、「私」としていた。
 マーロウには、感傷的なイメージが強いのだが、このイメージは清水俊二の訳に負うところが大きい。村上春樹がチャンドラーの『ロング・グッドバイ』を訳したとき、清水俊二との訳の比較が話題になったが、村上春樹の訳の方が原文に忠実だが、清水俊二の感傷的な雰囲気をもつ訳の方が好きだという向きも多かった。

 草森は、「田中小実昌は、ハードボイルドにいたずらな『感傷』は、不要という持論をもっていたのではないか。」としながら、さらに、「田中小実昌は、ずっとハードボイルドとセンチメンタリズムの関係を考え続けていたのではないか。つまりは、ハードボイルドに生きたいと思っていた。」とし、田中小実昌流の茫洋とした生き方について、田中小実昌の「漂白は、ピストルを持った探偵ならざる氏にとってハードボイルドの一つのかたちだったように思える。」といい、「どこへ行っても、都市の中で映画をバスにのってみまわり、新宿のゴールデン街ではしごして酒を飲んでほっつき歩き、若き日に日本のあちこちをテキ屋としてドサまわりをしたり、また客死に到る海外へ出かけようとも、漂白イコール感傷である。」結論づけている。(p123)
 田中小実昌の翻訳といえば、カーター・ブラウンの『死体置き場は花ざかり』である。草森は詳細な分析を施して興味深いのだが、『死体置き場は花ざかり』を再読してから、触れてみたいと思っている。

 ミステリへの関心から、真鍋博と田中小実昌についてこだわって書いたがが、「伊丹一三(十三)」の章と「中原淳一・葦原邦子」の章は興味深い内容であった。草森は、雑誌の取材で、伊丹と前妻の川喜多和子夫婦、中原淳一と葦原邦子の夫婦とそれぞれの自宅で会っている。いずれも、一瞬といってもよい短い時間なのだが、夫婦間のあやうさ、緊張関係を感じ取っている。その一瞬のことから、この2つの夫婦関係を分析しようとする。
 仙人のようなイメージを抱いていた草森がこのように夫婦間の愛憎を奥深く描いていることに意外性を感じながら読んでいた。
 そういえば、草森の偲ぶ会で、草森の知られていなかった家族が紹介されたことがあった。草森もまた、複雑な男女関係を過ごしたようであり、草森の経験がこのような文章になった思われる。
 最後の最後、壊れかけた伊丹と川喜多和子夫婦が雑誌のモデルに、加賀まりこがいいと草森に推薦し、加賀まりこが「押忍(オス)!」とスタジオに登場するシーンで終わる。
あの時代の加賀まりこの姿が目に浮かんでくる。鮮やかなラストシーンである。

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