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2013年7月20日 (土)

西武と巨人のドラフト10年戦争

2013年7月20日 西武と巨人のドラフト10年戦争  坂井 保之 , 永谷 脩

 坂井保之は、1970年にロッテオリオンズ(現在のロッテ・マリーンズ)のフロント入りをし、渉外部長をしていたのを機に、福岡にあった太平洋クラブライオンズ(後のクラウンライターライオンズ)の代表を勤め、福岡から所沢に移った西武ライオンズの代表となり、1990年には、福岡ダイエーホークスの代表となるなど、20年以上、プロ野球のフロントの経験を積むという日本では希有な人物である。
 永谷脩はスポーツライターであるが、TBSラジオで、毎週、月曜の朝8時に、スポーツの話をしているのを聴いていたが、この本を読むまで、どういう人物かは知らなかった。
 永谷は、『週刊少年サンデー』の編集部出身のフリーのスポーツライターである。
 
 この本の趣向は、江川卓の「空白の1日」問題、西武の松沼兄弟、郭泰源、江夏豊らの獲得、清原と桑田を巡る西武と巨人の駆け引きを、坂井と永谷がそれぞれの視点で交互に書いているのが売りの本である。
 同じことを扱っても、裏表というわけではないが、微妙に2人の言い回しが異なっているのは面白い。坂井の話は、他でも本に書いているので、格別、目新しいことではないが、永井の視点は目新しいというわけではないが、感じたことはいくつかあった。
 巨人の存在がプロ野球をビジネスとして自立することを阻害したことは衆目の一致することだと思っているが、西武ライオンズの存在は、金によって、プロ野球のあるべき姿をゆがめてしまったということである。オーナーの堤義明と寝業師の根本陸夫という2人がいたからこそ、西武ライオンズが福岡から本拠地を移転し、巨人に対抗することができる球団になり、巨人の専横を防いだということになるのであろうが、いずれにしても、巨人と西武の存在がプロ野球の発展を2-30年遅くしてしまい、今もまだ、その弊害から脱しきれていないといえる。
 WBCや統一球問題に関するNPBの混迷をみるにつけ、そういう思いを強くする。
 この本で、坂井や永谷は、巨人と西武の金銭がらみ暗闘をノスタルジックに、昔はよかった、面白かった式に語っている。

 江川卓の「空白の一日」は、1978年11月22日のことである。ドラフトの交渉権が前日に消滅し、次のドラフトが行われる翌23日の間隙のあることを目につけた巨人が江川と入団契約をしたことに端を発する事件である。この後、紆余曲折があり、江川は巨人入りを果たすのだが、巨人と江川の負のイメージは今でもつきまとっている。特に、コーチ・監督になれなかった江川のダメージは大きかった。永谷は、江川とは個人的に親しく、江川サイドで書いているのだが、負のイメージを払拭することはできていない。
 PL学園で、投打に活躍した桑田と清原のドラフトは、一位指名をするという巨人の約束を反故にされ、裏切られた清原の陽の生き方に対し、早稲田大学進学の言を翻し、巨人に入った桑田のイメージには陰がつきまとう。
 桑田は、早稲田大学の大学院に進み、『新・野球を学問する』などの著作で、スポーツ指導における体罰問題を取り上げ、マスコミ等でも発言をしている。私も、桑田の大学院に行き、学びを続けた姿勢には共感しているのだが、マスコミの扱いには何か、冷ややかさを感じるのは、1985年のドラフトのイメージがあるような気がする。

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2013年7月 7日 (日)

『優作トーク』

『優作トーク』 山口 猛 (編集) 日本テレビ 1995年10月刊

 『優作トーク』を読み終えようとしていたとき、夜、CSのチャンネルを回していたら、若かりしころの松田優作が青白い、のっぺりした顔がでてきた。
 疲れて帰ってきた身としては、観ようという気にはならなかった。
 松田優作という俳優は気になる存在であったが、その無機質的な雰囲気に、こちらの観ようと思う意欲を拒絶されてしまうこともあり、あまり、熱心に観ている存在ではなかった。
 ハードボイルド・ミステリに関心がある者として、大藪春彦原作の『野獣死すべし』、村川透監督の『遊技』シリーズ、テレビの『探偵物語』シリーズなど、もう少し、意識的に観ておけばよかった思っているのだが、松田優作が俳優としての自覚をもち、個性的な役者になったのは、鈴木清順監督の『陽炎座』や森田芳光監督の『家族ゲーム』の頃からだろうか。
 熊谷美由紀との不倫を契機に、松田美智子と離婚をしたのが1981年のことであるが、この当時に、松田は、『陽炎座』(1981年)、『家族ゲーム』(1983年)に出演している。
 『優作トーク』は、松田優作のインタビュー集であるが、『人間の証明』(1977年)の頃から、『嵐が丘』(1988年)のころにかけてのインタビューなので、熊谷美由紀にのめり込み、離婚をするにいたった経緯についても、丁寧に話しているし、俳優の仕事、監督の仕事についても、自分の考えを整理しながら応えている。
 同じことについて、時には、矛盾しているような話をしているのだが、考え続けることによって、そのとき、そのときに辿り着いた思いを真摯に語っているからのことだと思われる。
 松田優作が亡くなったのは1989年のことであるから、35数年前のことであるが、今、読んでも、ヴィヴィッドにに伝わってくるものがある。
 

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