2006年11月17日 (金)

○2006年11月17日(金) 浅羽莢子さん追悼

○2006年11月17日(金) 

   浅羽莢子さん追悼

 9月18日に亡くなった翻訳家の浅羽莢子さんの追悼式が、銀座教会で執り行われた。
彼女は、東大生であったが、どういうわけか、私の所属していた大学の推理小説同好会の一員となっていた。
 彼女の追悼文は、ミステリマガジンの12月号に書いているので、そこには書きそびれたことをいくつか書いておこうと思う。
 数年前、大学のミステリ・クラブとしては最古の慶応義塾大学推理小説同好会が創立50周年を迎えた。同好会のOB、それも、長老の部類に入るOBたちから、50周年を記念の会誌「推理小説論叢」を出そうではないかという話しがでてきた。
 実をいうと、同好会の機関誌であった「論叢」は長らく休刊状態であった。50周年記念に出した論叢は40輯であったが、その前の39輯は30周年記念誌となっているのだから、20年でていなかったことになる。
 さらに、浅羽さんの話しからそれるが、神奈川近代文学館の理事長をしている紀田順一郎さんは、創設当時のOBであるが、現役の学生時代に「論叢」に書いた評論の一部が『戦後創世記ミステリ日記』(松瀬社)に掲載されている。1960年代に少年マガジンのグラビアで、「怪獣図鑑」などの記事を作っていた大伴昌治さんも創設当時のメンバーで、学生時代のクラブの様子が大伴さんを取材した「OHの肖像」(飛鳥新社)に書かれている。

 プロの作家や評論家を多く輩出しているワセダ・ミステリ・クラブに対し、我がクラブは伝統的に、余技として、ミステリに関わっているものが多いのだが、浅羽莢子さんは、東京大学を卒業し、英国留学を経て、ミステリやファンタジー小説の翻訳家として活躍するようになる。
 浅羽さんは、外交官の父とともに、シンガポール、インド、英国などの地で、子ども時代を過ごしていたいわゆる帰国子女のはしりにいた。周囲のことに気を配っていなかったとはいえないが、我が道をいくかのごとく、早口しゃべり続ける様子は、帰国子女の一つの典型と得心がいく。そういうと、彼女は怒るかもしれないが・・。

 論叢の話しに戻ろう。50周年記念として、各自が自分の「ミステリ50選」を編むという企画になった。執筆依頼から、原稿督促までと、とにかく、原稿を書かせるのが大変であった。50選といっても、いざ選ぶということになると、結構な力業となる。脅したり、すかしたりしながら、原稿を書かせていたのだが、浅羽さんは、文芸ミステリ50選をするということになった、20選しか選べないといってきた。
 しかも、
”好む分野であるだけに、五十点くらい軽く選べると思っていたのだが、あにはからんや、何をもって文芸ミステリとするかを考え、さらに作品そのものの出来や好みを考慮に入れたところ、五十はおろか二十にも届かなかった。」
  として、タイトルは、「文芸美術ミステリ20選」ということになった。
 彼女は、扱い方の種類として、①創作型、②世界型、③実在型、④本歌取り方に分けて、ミステリを20選している。
 今、読み返してみると、50選を選ぶために、まず、「扱い方」という類別を定めたようにみえる。おそらく、この類別とは異なるものを考えて、50選にしようとしていたとも推測される。
 彼女の「文芸美術ミステリ20選」は、『推理小説論叢第四十輯 創立五十周年記念号』(トパーズプレス刊)に掲載されている。地方商流通出版センターの扱いと書店にいえば、注文できるので、興味のある方はお取り寄せください。そういえば、池袋のジュンク堂のミステリの棚にあるのをつい最近見かけたので、まだ、あるかもしれない。
 
 本の宣伝は、これくらいにして、先に進もう。
 このような経過があって、彼女から原稿のフロッピーが送られてきて驚いた。8インチのフロッピーできたのである。昨今、3.5インチ・フロッピーも見なくなったが、5インチの前のペラペラした8インチフロッピーである。OBから原稿を集めるにあたって、手書き原稿やオアシス等のワープロ専用機で作成したものがくるのは覚悟していたので、大枚をはたいて、ワープロ専用機からの変換ソフトを準備していたのだが、8インチ・フロッピー用のスロットルのあるパソコンなどはどこを探してもあるわけはない。結局、事務所の事務員に頼んで、打ち直し作業をした。
 先日、東京創元社の編集者にその話をしたら、創元社でも、対応できる業者を探して外部委託をしていたとしていた。
 私は、そのとき、彼女に、編集者の身になってみろよとの嫌みをいっていた。私のその気持ちは、今でも、変わらないが、そういうことを平気でできるというのが、彼女の強さでもあったし、仕事ができるからこそ許されたのだろう。

 7月の下旬、久しぶりに、彼女から電話がかかってきた。自分がガンで死ぬという宣告をされているという。身辺整理を頼みたいとだという。日本語を十分に話せない英国人の夫のことを気遣ってのことである。内面の葛藤はあったと思うが、気丈に対応していた。こちらも、病気のことなど、あれこれ詮索しなかった。急がなければいけないのかと聞くと、そうでもないという。電話からの様子は、普段と変わりがなかった。あれこれと、書類を揃えて確認している内に、お盆近くになってしまったが、彼女の家に出かけて、書類の作成を行った。寝たきりではあったが、弱気の発言はなかった。内心は別として、彼女も、私も、ハードボイルドなやりとりをしていたのだなと、思い出している。

 しばらくして、彼女が木村拓哉関連のコレクションの整理を頼んでいたIさんから、電話があった。彼女は、木村拓哉に関するサイトを立ち上げていたりして、ファンの仲間に広く知られていたとのことであるが、インターネットでミステリやファンタジー小説の関係者から、彼女が亡くなったらしいとの情報が流れるまで、彼女が翻訳家であることを知らなかったものが多かったという。

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2006年9月 9日 (土)

『大地の芸術祭・妻有トリエンナーレ』

○2006年9月9日(土)
    『大地の芸術祭・妻有トリエンナーレ』

 新潟で開かれている妻有トリエンナーレが明日までである。今日しか行く日はないと思い立ち、土曜日の朝、車で出かけることにした。
 北川フラム氏がプロデュースをする妻有トリエンナーレは、3年ごとに開催し、今回が第3回目である。                                  http://www.echigo-tsumari.jp/about/index.html
 一昨年、日大の芸術学部で、北川さんの話を聞く機会があり、今年は出かけて行こうと考えていた。息子の所属するサッカー・チームが高円宮杯を勝ち進み、応援に出かけたりしたこともあって、いつの間にか9月に入ってしまっていた。
 途中、小雨が降ったりしていたが、新潟に入ると、快晴となった。
 六日町インターで降り、まず、十日町の駅前にあうるセンターに行き、トリエンナーレのガイドマップを入手した。
 特に、事前チェックしていなかったのだが、日大の芸術学の有志で作業をしている空屋プロジェクト「脱皮する家」を見にいこうと思っていた。「脱皮する家」は、妻有地区の西端にある松代エリアのさらに西端の星峠エリア、そのすぐ西は上越市となってしまうところに位置している。
 とりあえず、星峠に向かう前に、十日町の東端の方にある下条地区の陶芸村プロジェクトを見にいった。係員の指示にしたがい、山道近くの道路際に、車を置いて、稲が黄金色になりつつある田んぼの中をのあぜ道を歩いていくと、池に浮かんだ板の上に、御神酒徳利を思わせる白い素焼きのような壷が立っている。2つ3つの壷が置かれ、水の動きにあわせて、ゆらゆら揺れる板ともに、壷も動いている。このような板が50枚近くであろうか、浮かんでいる。
 里山の池に、浮かんでいるそれば、お灯明のようにもみえてくる。
 そこから、10分程度歩いていくと、小さな山を掘り、通路状に切り開き、木の屋根がかけられ、縄文時代の竪穴式住居のようなものがあった。雨が降るとどうなるのかと思うと、住居として使用には耐えないであろうかと思いながらも、この作業をしているときは楽しいだろうなと、作業の様子を想像していた。
 やっきになって、展示会場を見ようとしても疲れるだけと思い、陶芸の展示をいくつか見て、星峠に向かうことにした。
 明日が最終日ということもあって、結構、人がきている。会場の近くで、車の整理をしている人の指示に従い、車を駐車し、坂を上って行った。会場の案内は、結構でているのだが、どういうわけか、道に迷い、山の上から、反対方向が見える場所に行ってしまった。そこからは、下の方に、棚田が見え、棚田の撮影ポイントとなっており、カメラをもった人たちが、撮影をしている。
 汗だくになりながらも、目的の場所に通じる脇道はないかと、棚田の景色を見ながら、山を上って行った。上に行っても、戻ることになるだろうと思いながらも、黄金色になる前の緑色がかすかにのこる稲が風に揺れる棚田の景色を楽しんでいた。
 暑さに、歩くのも限界と感じ、道を戻ろうと歩いていると、ワゴンに乗る夫婦連れに、乗りませんかと声をかけられた。十日町に住む老夫婦は、孫を連れてきたという。地元で行われているので、もう最後なので、見に来なければと思ったといい、これから「脱皮する家」に行くというので、乗せてもらうことにした。
 「脱皮する家」は、空屋を購入した東京に住む人と交渉をし、学生達が、家の再生を図ったものである。柱、梁、床板等に柿渋を塗り、それをのみで彫っている。彫ったところは木の地肌がでてくるのだが、それも、時間が経過し、作業をする人たちが触れることから、微妙に色が変わってきたという。
 高い天井に位置している梁を彫る作業も大変だったろうし、全部を彫っていく作業も途中では気の遠くなるような思いをしたに違いない。ちょっと、垣間見たキッチンは、真っ白で、洒落ていた。
 このプロジェクトが終わると、オーナーが住むのだという。
 このあたりは、豪雪地帯で、冬になると、家の周りを板囲いして、雪を防ぐという。その時は、この家の雰囲気もまた変わるのだろうと思いながら、この地を後にした。

 新潟県の南側の妻有地区で開催されている大地の芸術祭は、2000年に始まった。その後、3年毎に開催され、今回が3回目となる。
 当初は、30数カ国150人近くのアーティストが、十日町市、川西町、津南町、中里村、松代町、松之山町の6市町村にまたがる760平方キロメートルという広大な山間部に、作品を繰り広げられ話題になっていた。第1回、第2回と、結局、行く機会を逃してしまった。
 2005年4月の町村合併で、十日町市、川西町、中里村、松代町、松之山町が合併して、十日町市となり、津南町は合併には加わらなかったが、妻有地区という同じ地域で開かれているので、十日町市と津南町での開催となっている。
 ガイドマップには、330点の作品展示箇所が示されている。今回、初めて展示されたものから、第1回、第2回に展示された作品も残っている。
 津南町がどういう経緯で、合併に参加しなかったのかは知らないが、このような広大な地域の合併は、長年培われてきた地域の特色を奪っていくことは間違いない。
 会場は、十日町エリア、川西エリア、中里エリア、松代エリア、松之山エリア、そして、津南エリアと地域別に表示されており、外見からは、昔と変わっていない。
 第1回、第2回を見たわけではないし、今回も駆け足で見ただけなので、生意気なことはいえないが、合併をすることによって、地域がどのように変貌していくのかも興味のあるところである。
 夏の初め、北海道に遊びに行ったおり、合併協議に参加しなかった町村の関係者が集まるシンポジウムに参加した。国は、4000人、5000人程度の町では効率的ではないので、半強制的に、町村合併を推し進めている。しかし、合併することにより、その地域の中で、過疎化が進行する。役場の職員は、合併で統合された役所に通勤するために、役所を辞めるか、役所の近くに引っ越すことになる。こどもたちも、統廃合された学校に、遠距離通学するとなる。高校となると悲惨である統廃合の結果、地域に高校がなくなると、経済的に、高校に行くことすら難しくなる。過疎の地域の住民の意向を反映することが難しくなる。過疎の地域の中に、さらに過疎の地域が生じるという過疎の二重構造が生じていく。

 外から観にきた人には、車で押しかける観光客に顔をしかめる人がいるかもしれない。
 継続していくことによって、地域に何かが生まれていくということを北川さんは考えている。まさしく、アートが地域を変えていくことができるかの壮大な試みがここで行われている。
 トリエンナーレの開催期間だけではなく、1年を通して、見ることのできる展示物もある。
 最近、はやりの四国八十八ヶ所めぐりのように、妻有を歩き、いつでも、地元の人たちと交歓できるような文化が生まれてくるといいだろうなと思っている。
 3年後のトリエンナーレについて、億単位の金がかかることもあって、新潟県は応援をすることに消極的なようである。
 期間中の集客という観点ではなく、もっと、長期的に、地域の文化をどう育てていくのかという視点があるかどうかである。

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2006年9月 3日 (日)

ワイルド・ウェスト・ファン・ジュニア・ショー

2006年9月3日

ワイルド・ウェスト・ファン・ジュニア・ショー

 ごんどうけんさん、泉岡まさよさん夫妻(みんなは、けんちゃん、まーちゃんとよんでいる。)が主宰する子どもたちのダンス・グループ、ウェスト・ファン・ジュニアの第1回公演を西東京市民会館に観にでかけた。

ウェスト・ファンから同じくごんどうさんたちが主宰しているキッズ・ダンサーズに移った高2の娘たち5人組は、夏休み中、ウェスト・ファンの子ども達の稽古に参加し、お手伝いをしていた。

小学校1年生から、中学生までの総勢80人の子どもたちに、それぞれ数曲のダンスを教える作業は大変だったらしい。いくつかのグループに分かれて、稽古をしているので、先生が教えている間、小さい子の相手をしたり、振りを教えたりし、なかなかできずに居残り稽古をしている子の練習につきあったりしていたという。

 娘たちも、友情出演ということで、一曲、踊った。

今回は、自分たちで、曲の選択から振り付けまでをしたという。けんちゃんたちも、小さい子の指導に追われて、娘達のダンスの指導にまで手がまわらなかったらしいが、ふりつけもよくでき、呼吸もあっていた。

 この手の活動は、会場の確保から、練習日程、公演の内容まで、指導者や保護者がいたれりつくせりの段取りをすることが多い。

けんちゃんたちは、公演をする以上、観客が楽しめるものではなければならないとしている。従って、結構、稽古も厳しいものらしい。

娘が行っているときのことしか知らないが、そこに来る子ども達は、与えられたものを消費するお客様となってしまっているような気がした。いわゆるお稽古ごとや塾通いと似たり、寄ったりなのである。一生懸命やっている子どもたちの姿を見るのは、親として嬉しい反面、これでいいのかなとも思っていた。

 娘は、小学生のころに、ダンスに通うになり、自分が好きだと思ったことは初めてだとして、高校生になると、学校の部活もやめてしまい、学校が終わると、キッズ・ダンサーズの練習に通うという生活をしている。

 昨年の夏から、暮れまでは、今年1月のミュージカル公演のための練習に明け暮れていた。1月の公演になると、ウェスト・ファンの稽古の手伝いということで、夏休みを忙しく過ごしていた。

 と、このように書いていると、いい娘のようにみえるかもしれないが、家では、私とは話をしようともしないし、私が帰宅すると、携帯電話を握り締め、居間にあるテレビをつけて、ソファーにころがっていることが多い。

 ダンスに夢中になるのもいいのだが、夢中になっている目先のことから、もっと広いことに興味を広げていってほしいと思っている。

それが、楽しいことを単に消費するだけの生活から、様々な世界を想像し、創造していくことに繋がっていくようになってほしいと願っている。

知的好奇心の連鎖が始まるとアメーバー状に世界がどんどんと広くなる

今回の公演でも、ピンクパンサーのテーマ曲で始まり、ジョン・レノンのCome Togetheやビリー・ジョエルの曲や、ウェスト・サイド・ストーリーなどのミュージカルナンバーがうまく使われている。

脚本をつくっているけんちゃんやまーちゃんたちの引き出しの広さには、いつも感心しているのだが、娘達が、ただ、踊るのだけではなく、けんちゃんたちの引き出しに、どういうものが入っているのだろうか、どこから集めてきたのだろうかという好奇心をもたないのだろうか、どうしてそこにいきつかないのだろうかと、不思議に思っている。

フィナーレで踊った「シング・シング・シング」にしても、数年前の女子高生バンドの映画で流行ったが、往年のジャズ・バンド、ベニー・グッドマン・オーケストラの名演がある。

 私の部屋にも、ウェスト・サイド・ストーリーのDVDもあるし、ビートルズやライオネル・ハンプトンがフィーチャリングされた「シング・シング・シング」のCDもある。関心をもてば何時でも観たり、聴いたりするチャンスはある。

舞台で使われた曲が、ミュージカルはどのような場面でつかわれたのかとか、そのときの振り付けはどうだったのかという興味がわいてもいいし、現代舞踊の方への好奇心が行ってもいい。

ビートルズやビリー・ジョエルに関心をもてば、彼らが作ったり、歌った別の曲や彼らが生きた時代に興味をもったりしないのだろうか。

私が中高生だったころには、インターネットなどという便利なものはなかった。ボブ・ディランが一躍スターになった頃、ボブ・ディランが影響を受けたとするウッディ・ガスリーやウィバーズのアルバムを都内のレコードショップを回って探したりした。ウッディ・ガスリーのレコードのライナーノーツを読んでいると、スタインベックの「怒りの葡萄」の映画や小説などへの関心も生じた。

ここに描かれた時代は、私が好きなハードボイルド・ミステリが生まれてきた時代背景と共通していた。

このように生じてくる好奇心の連鎖ほど、楽しいものはないのだが、こればかりは、外から強制できない。

今回の公演の手伝いをしたことをきっかけに、自分で考え、想像し、創造していく面白さに気がつけばいいのだがと、願っている。

 

 

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2006年5月 3日 (水)

『あるサッカーの試合』

  ○2006年5月3日(水) 『あるサッカーの試合』

 気持ちのよい五月晴れの祭日である。息子のサッカーの試合を観に、八潮公園の多目的グランドまででかける。
 モノレールの大井競馬場前駅から、10分位の歩いたところにある。ひっきりなしに、グランドの奥の緑の向こう側から、飛行機が上昇していく。
 グランドの近くで、前の試合を観戦していたら、そのすぐ近くで、息子達がこれから試合をする相手方の中学生がボールを蹴りだした。
 息子たちよりも、身体は大きいし、球さばきもうまいので、互角に戦えるのかなと思いながら、前の試合を観戦した。
 途中から観たので、得点が何点なのかは分からなかったが、引き分けで、PK戦となった。双方、登場した5人の選手が、連続してシュートを決め、緊迫した状況になった。
 そして、10番の背番号をつけた6人目の選手がついにゴールをはずしてしまった。ゴール前のその場で、崩れおれて、泣いている。
 緊迫したPK戦であっただけに、泣き崩れている選手の気持ちが痛いほどわかる。数人の仲間が近寄っていき、抱きかかえるように、センターラインで待つ仲間の下につれてきた。それでも、まだ、泣きやまない。
 中学生の試合、それも、区の大会を勝ち上がった最初の小さな試合にもドラマがある。失敗した選手がどのような思いをしているのかというだけではなく、この子はチームの中でどのような存在であったのだろうか、これからどうしていくのだろうか、とこちらの思いは勝手に膨らんでいく。1時間もすれば、この子は、今の思いを忘れているのかもしれないが、それに比して、こちらが勝手に膨らませた思いは、あれこれと妄想に近くなる。
 これが、自分の息子だったらどうなのだろうかと・・・

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2006年4月15日 (土)

『名刺』

○2006年4月15(土)

 『名刺』


  最近、2人の方から名刺をもらう機会があった。
  2人とも、現役のサラリーマンであるが、名刺には会社の肩書は書かれていない。
1人肩書きは、SR会員、畸人卿会員。SRは、ミステリ愛好者の会であり、50年近い歴史をもつサークルである。畸人卿もミステリの会であるらしい。吉祥所のミステリ専門書店TRICK+TRAPで戸川さんから紹介されたのであるが、肩書きを見るだけで、彼の趣味・嗜好がみえてくるので、親近感がわいて、話がはずんだ。
  もう1人の名刺には、日本酒サービス研究会、酒匠の会とあり、利き酒師の資格ももっていること、更に、FM西東京というミニFM局のパーソナリティをしていることも記されている。
  名刺には、名前、自宅の住所、電話番号、メール・アドレスが印刷されている。仕事の匂いは一切ない。それに対して、私の名刺は、仕事の名刺なので、差し出しながら、気恥ずかしい思いをした。私の場合は、小さな個人の事務所なので、事務所で、プライベートなことを差し出しても差し障りがないのであるが、仕事の場では、プライベートな話をすることがあっても、私が書いているブログのことや、趣味としているミステリのことなどの話をすることは希である。
 たまさか、個人的にも、嗜好が合う人にあっても、職場の部署が変わり、連絡先である電話番号も変わったりすると、仕事のこと以外では連絡するために、異動した先の連絡先を確認することも億劫になり、疎遠になってしまうことが多い。プライベートなことで、連絡することには、多少遠慮が生じることもある。
 最近では、メール・アドレスが書かれているので、会社内で異動をしても、アドレスは変わらなくなったが、会社のアドレスに、個人的なメールを出すことには相手によっては差し障りがある場合もある。
 彼らの日常の生活が見えてくるので、名刺を交わすことによって、新たな会話がはずみ、いい時間を過ごすことができる。
 釣り好きの友人から、図鑑のように、沢山の種類の鮭と鱒の絵が描かれているポスターをもらったことがある。ある時、事務所の入り口に貼っていたポスターを見て、釣りが好きなのですかと聞かれ、しばし、話が弾んだことがあった。先ほどまで、相手方として、厳しい話し合いをしていた相手だったが、人が変わったようであった。
 仕事にプライベートなことを持ち込むのも好きではないが、パーソナルな名刺をもつことによって、仕事の肩書きでは見えてこない相手の人柄がみえてくることがある。
 自分の名刺を作ろうとは決めでも、肩書きに何をいれるのかは、難しい。自分をどう表現するのかの感性も問われてくるのだから・・・

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2006年2月28日 (火)

『日本全国おでん物語』『太もも版画展』 

○2006年2月28日(火)
  『日本全国おでん物語』新井由己 生活情報センター
   佐藤隆一『太もも版画展』 
 午後7時過ぎに、仕掛かり中の仕事が終わった。
 まだ、しなければならないこともあったのだが、いささか気力も失せてきていたので、『日本全国おでん物語』という本を書いているライターの新井由己さんが、一日だけのおでんの店「とことん亭」を開いているという神田小川町にあるSPACE NEOにでかけた。
 小川町の交差点から一筋入った場所にあるSPACE NEOの扉をあけると、奥に細長い板の間の空間で、奥に厨房に通じる小さなカウンターがあり、その奥で新井さんが働いていた。
 佐藤隆一さんの「太もも版画展」の協賛イベントとして、新井さんが、1日おでんや開いているというのである。
 佐藤さんは、山形で、有機の米作りをしているお百姓さんなのだが、エコロジーショップ「GAIA」の広報誌「かわら版」の表紙を毎月描いているという。象や熊をモチーフにした戯画風の木版画が20点ほど並んでいる。ほのぼのとしていて、後で、話をした佐藤さんの性格が素直に表現されている。
 農薬を使わない庭つくりを提唱して、NPOまでつくってしまった曳地さん夫婦がいたので、その席にいくと、佐藤さんが一緒にいた。初対面の佐藤さんに紹介され、しばし歓談。「太もも」の名前の由来をきくと、「もも」は、時間をとられないようにと、ミハエル・エンデの「モモ」からとり、ちょうど、そのころ、ハイレグが流行っていたから、「」太もも」という協同作業の会社を作ったという、本当なのか、冗談なのかよく分らない話であった。
 新井さんの作ったおでんは、いわゆるおでんだねではなく、大根やさつまいもをじっくり煮たというか、一晩、鍋で味をしませた、あっさり風のおでん味の野菜でした。ヘルシーでいいなと思いながらも、その分、日本酒をしっかり飲んでしまった。
 

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2005年10月16日 (日)

プレー・オフ第2ステージ

○2005年10月13日(木)

プレー・オフ第2ステージ

 福岡での仕事が終わったのは、午後6時15分であった。
 プレー・オフ第2ステージ「ソフト・バンク×ロッテ」の第2戦を観に行ってみようかと思い、ヤフー・ドームのチケットセンターに電話をした。今から、行ってもチケットがあるだろうかと聞いたら、分からないという。チケット売り場とは場所が違い、まだ、完売の連絡はきていないが、チケットが残っているかどうかは確認できないという。売り場には電話はないとのことであった。
 とりあえず、球場まで行ってみようと思いタクシーに乗った。ラジオでは、まだ、1回の裏を中継している最中、両軍ともに無得点であった。
 球場のチケット売り場に行くと、8000円と6500円の席が残っていた。どちらにするかなと眺めていたら。若い男に声を掛けられた。内野のB席を2000円買わないかとという。内野のBといえばどこの席か、定価はいくらか、こいつはダフ屋かという思いが、一瞬に駆けめぐった。家族3人で見に来る予定が、一人、ダメになったという。2000円ならばいいかと思い、2000円を支払って、チケットを手にした。
 一塁側のポール際、内野といっても、外野席、ポールの真後ろあたりの席である。反対側の外野席には、オリオンズの応援席があった。ホークスのファンに囲まれての観戦もしんどいなと思いもあったが、時間が経つうちに、三塁側も、オリオンズの応援席の一画以外はすべてホークス・ファンであることが分かってきた。この様子では、3塁であろうが、1塁であろうが、どこで観ようと肩身が狭いのは同じである。
 試合は、清水、斎藤の投手戦であったが、ホークスがホームランで1点を取った後、満塁で、フランコの痛烈なヒットで逆転した。心の内で、快哉を叫びながら、静かに観戦し、試合は終了した。
 球場からの帰りは、人の多さで、時間がかかりそうなので、シーホーク・ホテルの寿司屋に立ち寄る。カウンターの隣にいるおばさんは、熱狂的なホークス・ファンらしいのでも、ここでもおとなしく一人で酒を飲む。隣のおばさんも、カウンターの中のお兄さんも、タイガース・ファンとは違って、ホークスファンはおとなしいからというのであったが・・・

 

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2005年10月14日 (金)

長崎県美術館

○2005年10月14日(金)
 
 福岡にきたついでに、長崎県美術館に行ってみようかと思い、電車で長崎に向かった。 ついでと書いたが、電車で2時間かかるということを知ったのは、長崎のホテルの予約してからである。
 今になって地図を見て、その距離を確認している。何となく、長崎の位置を島原半島側の内海に面している町とイメージしていた。長崎が鎖国をしていた日本の唯一の海外の窓口になっていたことからして、外海に面している港町であって当然なのだが、どういうわけか、このような認識がなかった。
 長崎は暑かった。まだ、30度を超える日が続いているという。
 4月に開館した長崎県美術館は、海に面する水辺の森公園の一画にあった。
 長崎県美術館は、第二次世界大戦中にスペイン全権大使だった須磨弥吉郎が収集したスペイン美術のコレクションを500点余り所蔵していることから、スペイン美術を中心とした展示を行っている。
 須磨コレクションには、ゴヤ、グレコ、ラスケスなどの作とされる絵画含まれ、長崎県美術館は「スペイン美術巨匠展」としてこれらの絵画を展示したことがあるが、その後、そのほとんどが模写とされ、作者不詳として扱われることになったいわくがついている。ただ、このような経緯があっても、須磨コレクションは、中世から近世の作品が地方別、年代順にそろっており、価値があるものらしい。
 今回の展示は、「スペイン美術の現在」、第1部は「ピカソから21世紀へ─国内所蔵作品に見るスペイン美術の冒険」、第2部は「抽象と写実─スペインからのメッセージ」である。
 第1部には、日本国内で所蔵されているピカソ、ミロ、ダリらの作品が並んでいた。作品の出来や系譜にはばらつきがあるが、日本国内にもこれだけの作品があるのだなとあらためて日本の豊かさを再認識した。
 抽象的な造形を見慣れた目には、作者名は忘れてしまったが、写真のように精緻な写実の裸婦や緑の庭の風景画が妙に印象に残った。

 長崎の港には、大きな豪華客船が係留していた。船の名前を確認すると、船首にダイヤモンド・プリンセスと書かれていた。
 ホテルにチェックインをした後、クラバー園を歩いたが、客船に乗ってきた観光客らしく、年配の白人客が目についた。
 夕方、大きな汽笛が響き、船は出航した。ホテルがそのまま移動する船の旅はのんびりとして魅惑的であるが、地元からすると、観光で通り過ぎるだけで、地元にもたらす経済効果は大したことはないのだろう。

 ホテルに戻って、一休みしてから、市電に乗り、思案橋方面にでかける。どこか、おいしそうな居酒屋がないかと路地を歩いていたら「一二三亭」という看板が目についた。中をのぞくと、おばさんが3人カウンターの中におり、カウンターにはえびの唐揚、おからしろあえなどが盛られた器がならんでいる。牛かんと五島の原酒のひやおろしがおいしかった。落ち着いた居酒屋であった。

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2005年10月 9日 (日)

パリーグ・プレー・オフ「ロッテ×西武」

○2005年10月9日(日) 

パリーグ・プレー・オフ「ロッテ×西武」

 8日の朝刊を観て目を疑ってしまった。
 今日から、パリーグのプレー・オフの第1ステージ「ロッテ×西武」の試合の中継をするテレビ局がないのである。NHKは、大リーグのエンゼルス×ヤンキースの試合をBSで放送し、さらに地上波でも放映するとある。
 西武の地元であるテレビ埼玉も、ロッテの地元であるちばテレビも放映しない。
 それでは、ラジオはどうかと思い、ラジオ欄をみても、野球の中継はない。
 今日は、テレビ朝日が、午後4時からの1時間30分の放映枠があり、テレビ観戦を堪能した。午後2時からの試合であるから、録画放映である。
  小林宏と西口の緊迫した投手戦であった。三塁強襲の打球に飛びついて、1塁ランナーを封殺した今江の守備、セーフにはなったが、セカンド堀の中継プレーと、すばらしい守備が目に引いた。
  8日の第1戦も、渡辺俊と松坂の投げ合う投手戦、ロッテ西岡の再三にわたる好守備があったのだが、テレビで観ることはできなかった。
  昨年、2リーグ制存亡の危機に、プロ野球は公共財という意見がマスコミを飛び交った。阪神の上場問題を機に、昨年1リーグ制を画策した球団の首脳の「球団は公共財」という談話が新聞に掲載されている。
  結局、視聴率という資本の論理に帰するということなのだろうが、魅力あるプロ野球を育て、視聴者を増やすという視点が、プロ野球機構に球団首脳にもテレビ局にも皆無である。
  とりわけ、受信料の不払いが問題となっているNHKは問題である。高い放映権料を払って大リーグ中継をすることと、プレーオフを放映すること、どちらが、公共放送の役目に資するかは、明らかである。
  放映権の関係で、NHKは放映できなかったのかもしれないが、コミッショナーやパリーグ会長は、果たして、放映のための努力をしなかったのであろうか。
  NHKがこのような壁を乗り越えて、放映をすることこそが、本当に国民から愛される公共放送となることのできる試金石であったように思われて仕方がない。
  これは、ロッテ・ファンの小さな願いだけではない、交流戦で大したタイガース・ファンでさえ、ロッテの応援のすばらしさをほめていた。
  統制のとれた応援団の声だけではない、バッターの打つときの静けさを聞いてほしい。野球観戦の醍醐味は、この静けさから、打球の音とともに生じる声援、悲鳴、ため息、どよめきに至る世界に浸ることにある。耳をつんざく鳴り物が応援ではない。
  ロッテの試合が放映されることにより、真の野球ファンが一人でも多く球場を訪れるようになるといいと願っている。
 
 

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2005年8月26日 (金)

台風11号

○2005年8月26日(金)
 昨日から、大阪にきている。昨日の天気予報では、台風11号が東海地方あたりに上陸するといっていた。
 台風は、本土直撃のコースから東の方に変わり、千葉に上陸し、その後、太平洋に向かっているらしい。東京は、台風の余波で風と雨が強く、晴れてくるのは午後になってからだと、テレビのキャスターが話していた。
 新幹線からの外の景色は、台風一過の日差しがまぶしい。
 小学校の6年のときだった。父親に送られて、大阪の駅から横浜まで、一人旅をしたことがあった。やはり、季節も夏休みの終わりで、今日と同じように、台風一過の晴天であった。40数年前のことなので、新幹線はまだなかった。
 小さい時から、年に1回は、母に連れられて、北海道の名寄から、東京まで、列車で遊びにきていたので、旅慣れていたので、一人旅も何の不安はなかった。4人掛けのボックス席だったので、同席した大人が気遣って話しかけてくるのが煩わしかったことを覚えている。
 豊橋にさしかかったあたりで、列車が止まってしまった。台風の影響で降った雨により、河川が増水し、流木が流れてきて、鉄橋が不通になってしまったのである。確かに、前方に見える川は、氾濫はしていなかったが、濁流が岸近くまできており、流木は流れていた。
 しばらく、列車は止まっていたが、結局、代替のバスで、上流の橋を渡り、次の駅で別の列車に乗り換えることになった。横浜の家には、夕方6時頃に着く予定であったのが、家に着いたのが、午前0時を過ぎていたから、6時間以上、余分にかかった。
 乗り換えをした駅名やその後のことはほとんど覚えていないのだが、乗り換えで、煩わしかった大人たちから離れ、一人になってほっとして、バスに乗り、不通となった鉄橋の上流にある橋を渡り、川を眺めたことの記憶だけが鮮明に残っている。
 家への電話も、横浜駅に着いてからした。家で待っていた母も心配をしていたのであろうが、それほど心配をされたという記憶もない。
 一日が過ぎることが長かった子どもの頃の一夏の出来事を思い出して、これを書いていると、乗っているのぞみは名古屋を過ぎ、豊橋あたりを走っていた。

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